本編に入る前に、先ずおまけ情報です。
今朝の【産経新聞】19ページの記事を紹介しましょう。
ボケやブレを活用した「龍馬伝」、リアル志向のため画面が汚いと言われた「平清盛」が教訓
に成った今回は、撮影にソニー製の映画用高性能カメラ「F35」を大河ドラマで初めて使用し
ているそうです。演出担当の加藤拓専任ディレクターは「見た瞬間にきれいな世界と分かる
映像にしたかった」と。でも、カメラが大きいので、撮影上の小回りが利かない不便さは有る
が、出演者の表情や演技を丁寧に表現」出来ると言っていたそうです。
いよいよ新政府軍が会津城下に侵入して来ます。まさか会津を攻めては来ないだろうという
油断が有ったとか、農民に金を掴ませて裏道を聞いたから、会津軍の裏をかいたところから
侵入したとか、そんな風に言う研究者も有るようですが…
会津藩国家老・西郷頼母邸では、頼母と長子吉十郎を城に送り出した後、頼母の母・律子と
妻・千恵子は、三人の娘を刺して自らも自刃したと伝えられています。その他多くの婦女子の
自刃も有りましたが、勇ましく敵と戦ってそして戦死した者も多く居たようでした。そんな中で先
頭を切って戦いに挑んだのが、山本八重その人だったのです。
会津藩内には、許込め7連発中のスペンサー銃が二挺しか無かったそうです。一挺は松平容保
が所持、残る一挺が八重の兄・覚馬の物でしたが、その銃を担いで戦ったと言われています。
会津藩が鶴ヶ城籠城から10日余り経ったころ、奥羽越列藩同盟の米沢藩が降伏して仕舞います。
会津藩主・松平容保は、米沢藩の意向を調査させるためにと、手代木直右衛門と秋月悌次郎を密
かに米沢藩に派遣しましたが、その際対応したのが甘糟備後守継成と堀尾保助でした。
二人が米沢より帰城して、なおも籠城戦の続く9月8日、慶応4(1868)年が改元され明治元年と成
ったのでした。
明治2(1869)年3月、甘糟継成は「新保勘左衛門」の変名で上京しますが、500両の懸賞金付きの
身である中、雲井龍雄が土佐の毛利恭助に書状を送り、新政府出仕への道が開けたのです。
藩費による英学の東京勤学を認められ、慶応義塾・吉田賢輔を介し、福沢諭吉、小幡篤次郎らの教え
を受け、翌4月には14歳の長男・鷲雄(幼名竹太郎)を、慶応義塾に入学させています。
しかし継成はそれから間もない、明治2(1869)年7月侍詔院出仕が決まったものの、間もなく亡くなっ
ています。
ちょっと短い記事ですが、この後山本家の様子を書きますので、
今回はここまでにして、その⑤に続きます。
今朝の【産経新聞】19ページの記事を紹介しましょう。
ボケやブレを活用した「龍馬伝」、リアル志向のため画面が汚いと言われた「平清盛」が教訓
に成った今回は、撮影にソニー製の映画用高性能カメラ「F35」を大河ドラマで初めて使用し
ているそうです。演出担当の加藤拓専任ディレクターは「見た瞬間にきれいな世界と分かる
映像にしたかった」と。でも、カメラが大きいので、撮影上の小回りが利かない不便さは有る
が、出演者の表情や演技を丁寧に表現」出来ると言っていたそうです。
いよいよ新政府軍が会津城下に侵入して来ます。まさか会津を攻めては来ないだろうという
油断が有ったとか、農民に金を掴ませて裏道を聞いたから、会津軍の裏をかいたところから
侵入したとか、そんな風に言う研究者も有るようですが…
会津藩国家老・西郷頼母邸では、頼母と長子吉十郎を城に送り出した後、頼母の母・律子と
妻・千恵子は、三人の娘を刺して自らも自刃したと伝えられています。その他多くの婦女子の
自刃も有りましたが、勇ましく敵と戦ってそして戦死した者も多く居たようでした。そんな中で先
頭を切って戦いに挑んだのが、山本八重その人だったのです。
会津藩内には、許込め7連発中のスペンサー銃が二挺しか無かったそうです。一挺は松平容保
が所持、残る一挺が八重の兄・覚馬の物でしたが、その銃を担いで戦ったと言われています。
会津藩が鶴ヶ城籠城から10日余り経ったころ、奥羽越列藩同盟の米沢藩が降伏して仕舞います。
会津藩主・松平容保は、米沢藩の意向を調査させるためにと、手代木直右衛門と秋月悌次郎を密
かに米沢藩に派遣しましたが、その際対応したのが甘糟備後守継成と堀尾保助でした。
二人が米沢より帰城して、なおも籠城戦の続く9月8日、慶応4(1868)年が改元され明治元年と成
ったのでした。
明治2(1869)年3月、甘糟継成は「新保勘左衛門」の変名で上京しますが、500両の懸賞金付きの
身である中、雲井龍雄が土佐の毛利恭助に書状を送り、新政府出仕への道が開けたのです。
藩費による英学の東京勤学を認められ、慶応義塾・吉田賢輔を介し、福沢諭吉、小幡篤次郎らの教え
を受け、翌4月には14歳の長男・鷲雄(幼名竹太郎)を、慶応義塾に入学させています。
しかし継成はそれから間もない、明治2(1869)年7月侍詔院出仕が決まったものの、間もなく亡くなっ
ています。
ちょっと短い記事ですが、この後山本家の様子を書きますので、
今回はここまでにして、その⑤に続きます。