手代木直右衛門は、京都守護職の会津藩主・松平容保公の下で、文久3(1863)年8月18日、公武合

体派の薩摩藩・会津藩・中川宮らで、長州尊攘派勢力を京都から追放します。長州藩は御所の門(禁門)

の警備を解かれ、三条実美ら長州派公卿(七卿)が都落ちして長州に逃れました。

この8・18政変に際して、壬生浪士組は御所の南門(現堺町御門)警備に出陣しています。この時壬生浪

士組に「新選組」名が与えられ、市中取締りの命を受けたのでした。

京都は厳戒を要し、京都守護職の組織内に有為な人材が必要なため、手代木らは急遽上洛を命じられ、

昼夜兼行で馳せ参じたのでした。9月には大和一揆の変で郡山藩との交渉や復命を忠実に執行したことが

江戸家老・横山主税に評価され、「京都会津藩公用人兼務」抜擢されたのです。

翌元治元年(1864)6月の池田屋騒動を経て7月の蛤御門の変で手代木は「軍事奉行副役兼務」として活

躍し、病の松平容保を担いで戦闘に及んだのでした。

慶応3(1867)年には将軍慶喜から積年の功績を認められ、金と服地も賜っています。10月14日になって

慶喜は朝廷に大政奉還を奏上し、翌慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いへと成っていきます。いわゆる「戊

申戦争」への序章ですが、直前には前将軍徳川慶喜の「手代木を幕府に召し出し、監察にしたい」との内意が

伝えられたが、それをも固辞して会津藩監察として鳥羽・伏見の戦いに臨んでいます。しかし、戦いは利有らず、

その上実弟・佐々木只三郎は負傷し、紀伊三井寺で亡くなって仕舞いました。

同年3月には、江戸から会津に引き揚げ大目付と成って、奥羽越列藩同盟に奔走します。白川口の戦いで勢い

付いた西軍は、終に鶴ヶ城に迫ってきました。


この時会津藩の兵は、殆ど国境警備の為出陣していて、残ったのは女子供や老兵のみだったと言われています

が、ここで先頭を切って、兵術師範だった父・山本権八から習った銃剣の操作を生かして、髪も短く切った山本八

重だったのです。慶応4(1868)年8月23日、新政府軍がなだれ込み、鶴ヶ城下には籠城の命が下ります。

八重は鳥羽・伏見の戦いで亡くなった4歳下の弟・三郎の形見の着物袴姿で、7連発のスペンサー銃を担いで、

鶴ヶ城三の丸に母、夫・川崎尚之助と共に向かったと言われています。18歳上の兄・覚馬が居ますが、兄は禁

門の変で負傷、失明して鳥羽伏見の戦いの時に新政府軍に捕えられ、薩摩藩邸に幽閉されていましたが、その

知らせは未だ八重の手許には届いていなかったのでした。八重はこの兄の影響を強く受けていたので、兄が藩

校日新館に招いた蘭学者で理科学者で但馬出石藩医の息子・川崎尚之助と三年前に結婚していたのでした。

そんな八重にとって、兄や弟の事も有って、新政府軍に対する敵愾心は並々ならぬものがあったであろうことは

想像出来ます。


そうした彼女をして後に「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれるようになったのですが、この籠城戦で、若しかしたら

当時手代木直右衛門と接点が有った可能性も否定出来ない気がしますが、想像の域を脱しません。


結局籠城一か月、父権八は戦死し鶴ヶ城は開城と成りました。

この降伏・開城に際して、米沢藩に密使として会津藩の意向伝達のため出向いたのが、秋月悌次郎と手代木で、

米沢藩家老として応対したのが、後に手代木の次女仲枝の舅となる甘糟備前守継成でしたから、これも想像と言

うか推測ですが、この時の面談が後に繋がったかも知れないと考えられるのです。


    実は今日はもう少し長く書く積りだったのですが、愛車の車検で今夕入庫のアポを
    取っています。おまけに今夜は「八重の桜」の、記念すべき第1回ですし…。
    と言う訳でこの辺りで次回に続きます。
    そしてもう一つ、三年前の新選組サミット、二日間で28000歩も歩いたら、足の付
    け根が張り、終に(女性の方、済みません)睾丸が倍位に腫れて仕舞いました。
    安静しか無いと一週間入院。前立腺からの可能性有りと、半年毎に検査をして来ま
    したが、内部組織を取って培養検査が決まり、8~9日の二日間入院と成ってしまい
    ました。更新・コメント・ぺタ一切出来ませんが、その程度なので大丈夫です。
        以  上  お  断  り  で  し た。