マザコン…まず頭に浮かぶのは、なんともキモイというイメージが強烈にインプットされている 。母と子が互いに依存し合う度合いが高い人の事を言うのだと思うけど、TVの映像などにより過度の甘えつぷりという姿が印象ずけられている。そういう映像を見て「自分は、こいつとは絶対違うんだ」というある種の恐怖心(不安)から逃れたいという心理が働いている。例えば、パパ、ママという呼び方をきもがったり、親子で出かけるということ
もこの種のイメージと繋がっている。だから、ごく普通にというかナチュラルな感じで親子の良い結びつき、関係が育って来ている子でさえこのイメージに囚われ、そういうイメージで見られるのを極端に恐れ、親との距離を作ってしまうことがある。私は本当に勿体無い話だと思うんだけど…このイメージは幻想なのにと思う。だからこういう観念に囚われず、のびのびと良い親子関係を作っている人を見ると素晴らしいと思うし尊敬すべき姿だとも思う。
10年前のノートからだけど、いまでもこういうことはあるのだろうか?昔よりはこういう感覚は減っている感じはする。


否定的な感情(憎しみ、蔑み等)とは、相手をものすごく単純化して捉えようとする心(相手の悪い所しか見ようとしない心)。真実を把握できない状況だと思う。相手を単純化することで、自分なりの把握をして、ある種の安心感を得ようとするエゴの試みなのではないだろうか?相手を把握したい、その人より上に立ちたいという気持ちを持続させたいという
心理、自分のの感情(マイナスエネルギー)を肯定したがるということなんだと思う。

「神との対話」より
怒りは決して正当化されない。
攻撃には全く根拠がない
救済の秘訣は次のことしかない。
あなたは、それを自分自身に対して行っているのだ。
買い物の帰り道途中、田んぼにいたカラス(20羽から30羽くらい)の1羽に、心の中で、
カーラスくん!カーラスくんと呼び掛けてみた…やっぱり無反応…あたりまえじゃん
それでもめげずに「カーラスくん!カーラスくん!と心の中で呼び掛けてみたら、そのカラスが「カーカーカー」と鳴く!(私の方には向いてなかったけど) お?もう一度心の中で「カーラスくん!カーラスくん!」ていうと、「カーカーカー」と鳴く、呼応的ではなかったけど…微妙…と思っていたら、こちらに向かって5.6歩歩いて来た!様子を観たかったけどバカみたいにそこに居るわけにもいかないし、後ろから車も来ていたし、車を走らせた…なんか惜しい!その後、家の庭に来る鳩や小鳥にもやってみたけど、少しこっちに歩いてる来る感じで、なんとも微妙…。去年のことだけどなんだけど、どうして声をかけたくなったんだろう?…なんか動物とコミュニケーション取ってみたいとふと思ったんだとおもう。
庭の草むしりをしている時、いつも思う。草達も生命を授かり一生懸命咲いている…のに…ごめんねえと言いながら草達をむしりとっている。…なんか文字にするとすごいむごいことしてるみたい…😨いえ、してます…ね😥
私にはあなた達が美しく見えないの、なんかもう ボーボーと生えているくらいにしか…。ごめーん
一方お金を払ってまで花屋さんでお花買って家に飾っておう綺麗だねえなんて花を愛でている。同じ植物…だよねえ
もし人類が高次の存在へとレベルアップしたら草をむしりとる状況なんてあるのかしら?
ないと思う。きっと自然と素晴らしく調和しあい、共鳴しあい、あるがままで美しく存在しあっているのだと思う。地球もいつかそんな惑星になれますように
赦しこそ常に道

この言葉に私は深く共感する。
例えば誰かに傷つけられ、その事について相手を絶対に許せないとなったら、その人は
その障壁を乗り越えることにならず、その障壁を乗り越えてクリアするまで同じような状況を経験することになる。クリアして始めて次の段階に進めるということ。でも傷つけられた心にはかなり難しいことだと思う。許す気持ちになれるまでにはいろんな気ずきに出会わなければならない。…と書いてみたけど、現実はなかなか難しい。

この世の本当の幸せは
この世の負のエネルギーがどのようにして生まれるのかを理解しようとすることから、ようやく近ずいて行けるものだと思う。

負のエネルギー(悪とか)を自分のまったく外側から生まれたものとして対処すれば悪という観念から逃れられない。
悪(自分の周りの負の出来事)は自分と繋がっている、自分からも負のエネルギーと繋がっていると捉えることでようやく悪の性質、本質が見えてくる。

純粋な魂が修練の場としてこの世にやって来て経験を積んでいるのだと思う。そもそも相対するものがなければ具体的に気ずけないのだと思う。闇があってやっと光の存在に気ずくと言うように…。