負になるには、訳(理由)がある

正でいるには、ただそのままであるだけでいい。

思い出す事

正は現実、負は幻だから



自分のエネルギーが動かないところ(あまり反応しない部分)で動こうとするから努力が必要となる。

自分が興味を持った事には自然に自分のエネルギーが動く、
エネルギーが自然と流れるから努力と感じなくなる、むしろ喜び…なんだろうなあ

私の過去を認めよう、
全ての過去を認めよう

神様が全てを認めている  包容しているのだから…。
どんな凶悪な犯人でもその人の人生を赤ちゃんにまで辿れば、その人を全否定なんて出来ないんだと思う。

悪ってなんだろう?この地上の悪つて学びのために存在するのだろうか?

ニールさんの神(神との対話)が言っていた
あるまだ若い光の魂が熟練した魂にたずねた
「僕はまだ「許す」ということがわからない」
熟練した魂はこう答えた「では、私が地上に降りて悪となろう、そして地上に降りたあなたと出会い許しがたい状況を与えよう、そこであなたは学びを得て私を許すのだ」…と
普段、我儘であるとか意地悪つぽい性格とかで過ごしている人が、ふと違う環境で良いパーソナリティーで過ごせたとする。そうするとその良いパーソナリティーの時は、猫をかぶっているとか、偽装していると捉えられる。……でも私は思う
良いパーソナリティーを演じているのではなく、本当の自分が出せたんだ…つて捉えてあげる…お人好し?でもその方が世の中もう少し平和になるかもしれない
良さは真実悪しきは仮面だから…。
人間が直面している障壁は「魂」からすれば、「経験せよ」という事なんだろうなあ
どんな悪しき事も…生涯を終えて悪だったと思える人の心も、その経験を最終的には
本人、関わった人達がプラスの経験として積み上げていくものなんだと思う。
ものすごく第3者的な目線だけど…。

愛は全ての出来事をプラス方向に向かわせる力がある。

どんなに認知症が進もうと、人間の尊厳が損なわれるはずがない。

心の平穏、平和は人に愛を与えるのみの存在になることで得られる
相手から愛を与えてもらいたいと望むことで心が乱れる。
自分の不得意を恥ずかしがる必要などないのかもしれない。その不得意な分野を周りの人がどうやってカバーしていくか、そのカバーする行為が学びのひとつとなっていく。
これって自分にすごく甘い考え?というのではなく、身近な人の不得意分野を見極め、さりげなくカバーしなきゃいけないということ。障害を持ってる人の場合も同じことが言える。

年をとって、家族に迷惑をかけたくない、という気持ちも、逆にその迷惑というものが
こちらの学びになると言う事ではないだろうか、だから私は娘や息子に、もし認知症や寝た切りになったらよろしくねえ、きっと良い勉強になるからと伝えている。冗談ぽく言えるのも元気なうちかもしれないけど…。

あるお寺さんが、法話の中で、「あんたがた寝た切りになっても、堂々とシッコたれなせ」と言っていた。ほんとうにそう言う事なんだと思う。