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ここにある、フリップの言葉で
世界中の誰でもないギタリストになるか
世界中の誰も演奏しない音楽をやるか
人に言われるがままに何でも演奏するギタリスト
という表現は、心をついてくる。
これを自分の人生例えると
世界中の誰もでもない似たような人がいない存在になり
世界中の誰もしない仕事をする。
お客に言われるがままに何でもやる。
自分は、お客に言われるがままに何でもやる感じだ。
はっきり言ってしまうと。
世界中の他の誰もしないことをしているだろうか?
結局、自分は、世界中の誰でもないというものが音楽でも好きで、
モリッシーも、世界中の誰もそんな歌をそんな風に歌わないという
ところから強烈なインパクトを受けたのだと思う。
そういうことができる人が、
どこぞの誰かみたいなことをすると失望する。
つまり、どこぞの誰かみたいなものなら、別にその人でなくてもいい。
しかし、社会の大半、100%に近いレベルで、
やっぱりどこぞの誰かみたいなものであり
それを高い品質でやってのけるというようなことで社会は競争している。
世界中の誰でもないというレベルに到達するためには
何をすればいいのだろうか?
凡人なのでわからない。
努力だけでは無理な気がする。
今日、思ったのは、何かに対して、
それは、何よりも良い、一番良い、そこまで追求してやっているのかということ。
やってないし、そこまで追求するのは現実的に難しい。
でも、これが自分にとっては1番なんだという確信に近いものは
せめて必要なのではないかと思いはじめている。
そうでないと、どこぞの誰かの程度の低い真似事で終わってしまう。
ミックカーンは、実はあのフレーズが一番良いと思っていたのではないか?
そんなフレーズあり得ないよと私は凡人だから思ってビビるのだけど
意外とごく自然とこっちのほうがいいじゃんって思っていたのではないか?
だから、聞いているこっちまで、このほうがいいんじゃないか?と引き込まれている
のかもしれない。
究極的に言うと、どこぞの誰かの真似事でもいいとは思う。
社会の大半がそういうものだから、それでも結局良いと思えたりするのである。
知らないということは、知ったときの感動につながるわけだし
それは、価値観の違いだ。
究極を求めて放浪すると、世界中の誰でもないというものでしか
もはや満足はできないし、感動もできなくなる。
もう、世界中の誰でもないものを求めて生きていくしかない。
残りのわずかな人生で、早く世界中の誰でもないというレベルの人間になりたい。
生まれてきたからには、圧倒的に、君は、君独自であれ!
日本の教育はこうあるべき。