神に誓って真実 | いつも木端微塵

いつも木端微塵

ギタリスト:テリー木端の日記。この日記は、フィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
音楽的影響:King Crimson,XTC,Japan,Joy Division,The Blue Nile,
The Smiths,Morrissey ギターは、Tokai SEBレスポール木端モデル。

うまく表現できるかわからない。

自分のモチベーションのMAXが100%だとして、

今のモチベーションが10%に満たないとしたら、

私はそれをいかに30%まで高めるか、40%まで高めるか

それがテーマになってしまう。


しかし、120%であっていいのではないだろうか?


どこぞのマニフェストのように単なる理想だろうか。


私は罵られようとも

袋叩きにあおうとも

地面を這いつくばったとしても

喜びと感動が欲しい。


人生は生きる価値のあるものであってほしい。

どれだけ不条理で絶望的であったとしても。

99%以上がゴミと嘘でクズだ。


私の中で、全くの嘘偽りなく、

ピュアな気持ちで断言できることがある。

人というのは腐った生き物だが、

愛が大事だとか、神様の道を行くことが大事だとか言うことではなくて、

それが真実だっとしても私の口から発せられて真実として保っていられるかは

わからない、むしろそうでなくなっているだろう。

生き様と行動をもって証明できるかもわからない。

その自信もない。


そんな私から、偽りのない真実がでるとしたら1つである。

「死ぬほど退屈だ!」

どのくらいかというと、腐った政治家から腐った宗教家から腐った組織に至るまで

「ぶっ殺してー」と思うくらいである。

「ぶっ壊してー」と思うくらいである。


激しい渇きと飢え。

それは、記憶の彼方にある。忘却の彼方にある

感動と喜びと救い、

それが再びやってこないことに対する悲しみと怒りと不満足の塊である。

同じ成功が再び来ないことに対する憤りである。


他人というものが私に対して思うことや言っていることは

ある意味正しいと思う。正確に言うと事実だと思う。

蜃気楼を見ているとすると、そこに蜃気楼は存在するわけだから。


だからといってそれに合わせるかどうか、従うかどうかは別問題だ。


そして私が感じることもその意味で事実である。

「死ぬほど腐っている、くだらねー」

私はそう感じているのである。


歳をとって大人になって理解をする?違うと思う。

歳をとった人たちで立ち位置は様々だ。


公平という言葉は、不公平だと主張する連中に対して、

主張された側がどこまで譲歩するかの物差しでしかない。

何の感動もそこにはない。


すばらしいと皆で思えることがあまりに欠落している。


ときどき、ぶっ壊してケラケラ笑ってやりたいとさえ思うことがある。


まあ、その意味においては、最悪と言えるかもしれない。


私は単にこのような存在でしかなく、

自分にどのような強みがあろうとも、弱みがあろうとも

両方の存在で自分であり、理想からは遠く離れている。


だから人がどう思うとしてもある意味どうでもいいのである。


私が「死ぬほど退屈」だと感じていることはくみ取ってもらえると

非常にありがたいが、だいたいくみ取ってさえもらえない。

でも、はたしてこれは自分だけなのだろうか?

そうではないと信じたい。