自由と言う言葉の存在は私にとっては重い。
自由であることを重要視している人間と形容されることもあるが、
自由を知らない人たちから何も言われたくない。
「あなたは自由か?あなたの意識は自由か?」
理論がすべてひっくりかえるようであるが、
私は自由ではない。私の生活も自由ではない。
環境も社会も自由ではない。
しかし、こう言い切れるのは自由を知っているからである。
自由であること、その瞬間自由になること。
自由に生きていいんだ!ありのままの自分でいいんだ!
そう勇気づけられると同時に、自由を望み苦しみ、
その危険性と醜さまで目の当たりにする。
それでもいまでも自由であることの重みを意識する。
これは、ものすごい、途方もないリスクや悲しみと引き換えに
神が我々に与えたものだと思う。変な宗教の話ではない。
日本では、社会的なシステムの抑圧というものは大したことはない。
しかし、若者は束縛がないようでありながらけして自由ではない。
ニートは自由ではない。けして一人で生きられるわけではなくて
親に生かしてもらっているから。
理想の人生などない。幻想である。自分の思い込みだ。
なぜならその人間は自分が理想だと思うその人生を生きてはいない。
想像して、見て聞いただけでそれが理想だと信じて
人にまでそれを強制する。ひどい話だ。ほとんど宗教に近い。
親が自分が若い時はできなかったから、
お前にはそうなってほしくない
と子供に押しつけることがそれである。
自分がそれをやってから言ってくれ。
人は偏見と思い込みの産物である。
でも、唯一幸福だったのが本当に自由を経験した
瞬間があるということで、その時を何度も思い返す。
変化する人間と変化しない人間、大きく2通りある。
痛い思いをして反省するから変わる。これも1つの事実だが、
腐った意識から離れて自由になること私はそのほうが好きだ。