『鎌倉殿の13人』~その144
第43回 資格と死角
今回は、駒若丸(こまわかまる:込江大牙)について
駒若丸??という感じの方も多いかも知れない。
今話で、京から戻った公暁(寛一郎)は、鶴岡八幡宮で千日参籠(せんにちさんろう)を行った。その時、公暁の世話役として付き添ったのが駒王丸。彼は義村(山本耕史)の三男(※1)で、当時13歳位。おそらく次回第44回「審判の日」でも、ちょっとした役所(やくどころ)として出てくるはずだ。
駒若丸は、1218(健保六)年9月13日、鶴岡八幡宮内で喧嘩沙汰を起こし、翌日謹慎処分を受けている。実朝暗殺の約四ヶ月前のことだった。駒若丸は、この時すでに公暁の門弟として鶴岡八幡宮に入っていた(『鏡』1219(健保七)年正月27日条)。
(父頼家(金子大地)の死の真相を聞く公暁。この時の山本耕史のわざとらしい演技は何を意味するんだろうか?裏で義時(小栗旬)と繋がってる??)
実朝(柿澤勇人)が公暁に殺された時、公暁は駒若丸を使いとし、三浦義村の下に送った。駒若丸は、「(実朝暗殺によって)今は、将軍が空位となった。当然次は、自分(公暁)が将軍となるべき。なので、色々と方策を考えよう。」という公暁の伝言を伝えた。これを聞いた義村は駒若丸に、「自分の館に来てください。迎えの軍勢を送ります。」と伝言を託した。
(実朝の履き物の中に入っていた小さな石は、何を意味しているんだろうか?次回、回収されるんだろうか?)
駒若丸が義村の下を去った後、義村は、駒若丸から聞いた事を義時(小栗旬)に伝える使いを出した。義時からの答えは、躊躇なく公暁を殺せというものだった。義村は、武勇に長けた公暁を討ち取るのは容易なことではないと思ったが、そばにいた長尾定景(※2)に白羽の矢を立てた。彼が『勇敢之器』だったからだと『鏡』は伝える。
定景は、断ることができなかったので、黒皮威(くろかわおどし)の鎧を着て、雑賀次郎(さいがのじろう:力持ちで有名な武士)ら数名を連れて、公暁の下に向かった。
この時、公暁は後見役の備中阿闍梨(びっちゅうのあじゃり)の屋敷にいたが、義村からの迎えがあまりにも遅いので、実朝の首を持ったまま自ら義村の屋敷に向かった。その途中で、定景らに出くわし、雑賀次郎が即座に公暁に飛びかかって組み合いとなった。二人が組み合っているそのスキに、定景は自らの太刀をとって公暁の首を取った。公暁は素絹(そけん)衣に腹巻(白い絹で作った僧衣に簡易な鎧)姿だった。この時、公暁は実朝の首を持っていなかった。備中阿闍梨の家から義村の屋敷に向かう途中で捨ててしまったと思われる。実朝の首は見つからず、首がないまま実朝の髪の毛(※3)を首に見立てて葬儀が行われた。
(床を引き摺るような部分と肩からかけられた袈裟のない部分が素絹)
駒若丸は、実朝の死の翌年、光村と名を変えて『鏡』に出てくる。そして、四代将軍藤原頼経(※4)の第一の近習(きんじゅう:お側仕いの者)となり、二十年余りに渡って仕えることになる。
(藤原頼経と言われる肖像:『集古十種』:江戸時代に発行された図録集:大河ドラマでは赤ちゃんで登場してくるはず。)
今年の大河ドラマが描く後の時代になるが、1246(寛元四)年、光村は名越光時(※5)らと組んで将軍となった頼経を担ぎ、執権北条時頼(※6)を引き摺り下ろす陰謀を巡らした(宮騒動)。陰謀は未遂に終わったが、頼経は5代執権北条時頼によって鎌倉を追放された。頼経を京へ送り届けた光村は、鎌倉に戻り、元将軍頼経がいた場所から離れず、しばらく出てこなかったばかりか、「落涙千行」(大泣きに泣くこと)だった。
(北条時頼像:建長寺:現在は鎌倉国宝館蔵:時頼は能『鉢の木』諸国を旅した人として有名だが、実話かどうかは・・・)
そしてこの時光村が周囲に語った言葉が、三浦一族の滅亡へと繋がっていく。「相構へ今一度鎌倉中へ入れ奉らん」つまり、鎌倉を追放された頼経を、なんとかしてもう一度鎌倉に戻したい。光村は、北条時頼によって追放された頼経を再度将軍につけようとしたのだ。宮騒動の時には、三浦一族との正面衝突を避け、穏便に事を運んだ時頼だったが、光村のこの言葉は再び両一族そしてその周囲を巻き込んでの対立に火をつけた。強硬とも言える光村に兄泰村も従わざるを得なくなり、時頼もまた三浦族滅を強硬に主張する安達景盛(新名基浩)に押される形で両一族は合戦となった。1247(宝治元年)6月の宝治合戦である。
(安達景盛:宝治合戦は、彼の死の前年に起きている)
合戦は、北条方優勢のうちに進み、追い詰められた泰村・光村らは頼朝法華堂で自害して果てた。その数は、500を超えるものだったという。この時、光村は、自らの刀で顔を削り、血だらけになって周囲の者に「自分だとわかるか?」と確認した上で自刃して果てた。光村の首は見つからなかった。
(頼朝の墓:元頼朝法華堂があった場所とされる)
※1 四男という説あり。ここでは『国史大辞典』三浦光村の項に従った。
※2 定景は、頼朝挙兵時に頼朝に敵対していたので、囚人として三浦家に預けられていた。こ
の頃には、すでに三浦家の家臣となっていたと思われる。このように他家の家臣となるこ
とを被官化(ひかんか)という。北条嫡流家=得宗家の家臣となった者を得宗被官と呼ぶ
のが有名。平盛綱(きづき)は、この得宗被官。)
※3 実朝は死の直前、宮内公氏という側近にの髪をとかしてもらっていた時に自分の髪の毛を
一本抜いて「記念にあげる」と言って渡している。また、この時実朝は、「出ていなば
主なき宿と成らぬとも 軒端(のきば)の梅よ 春をわするな」(私が出ていったら主人
のいない家になってしまうね。でも梅よ、春になったら忘れずに咲いておくれ。)という
縁起でもない和歌を読んでいる。まるで自らの死を悟ったかのように。『鏡』1219
(健保七)年正月27日条。
※4 今話でも描かれたように、後鳥羽上皇の皇子頼仁(よりひと)親王が実朝の後を継ぐ予定
となっていたが、実朝の死によって上皇から拒否された結果、頼朝(大泉洋)の妹のひ孫
である頼経が、わずか2歳で鎌倉に下った。幼名三寅(みとら:寅年の寅の月寅の刻に生
まれたので)。
※5 義時の孫。朝時(西本たける)の子。
※6 泰時(坂口健太郎)の孫。4代執権である兄経時(つねとき)が23歳で早逝したことを
受けて5代執権となる。この執権交代の時期に起こったのが宮騒動。