『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その131
第36回 武士の鑑
今回は、惣検校職(そうけんぎょうしき)と重忠(中川大志)後の武蔵国について
(ある意味”迷コンビ”だった重忠(中川大志)と和田義盛(横田栄司))
時政(坂東彌十郎)が、重忠(中川大志)追討の密議をしていた時、女婿稲毛重成(村上誠基)は、一瞬躊躇するも、重忠亡き後に武蔵国惣検校職を与えると時政にそそのかされ、重保(杉田雷鱗)を誘き出す。結局、義時(小栗旬)が無実の重忠を討ったことに対する北条氏への反発を逸らすため、全ての罪を被せられて重成は謀殺される。一瞬躊躇した重成が、謀議に乗った惣検校職とは何なのか。
(重忠の首を持って、父を諌めようとする義時)
惣検校職とは、国内の政治・軍事の最高責任者となる権利のこと。平安時代の院政期、本来は任国に赴任する原則だった国司が、任国に赴任せず代理を送る仕組みが生まれた。都の有力貴族は、いくつもの国司を兼任し、その任命された国の全ての権限、税収などを手にすることができる制度、知行国制度が生まれる。国司が赴任しない国を留守所(るすどころ)というが、その中の最高責任者が惣検校職と言える。
武蔵国惣検校職の場合、武蔵国秩父郡を本拠とする秩父氏が代々継承していた。この秩父氏は、本拠となる秩父一帯が良質の馬や銅を産出することによって大いに繁栄したが、重忠の父重能(しげよし)と重能の叔父秩父重隆との間で家督を巡る対立があった。
惣検校職だった重隆は、源義賢(よしかた:源為義の次男:頼朝の父義朝の弟:頼朝の叔父)と結びついて勢力を拡大。関東での勢力拡大を図る頼朝の父義朝の長男義平と秩父の家督を争っていた重能は、1155(久寿二)年8月16日、秩父氏の本拠大藏館(埼玉県比企郡嵐山町)を急襲し、義賢、重隆を討った。この時、義賢の次男駒王丸(2歳)は家臣に守られ、難を逃れた。この駒王丸が後の源義仲(青木崇高)だ。以前にも少し書いたが、義仲にとっての頼朝は、自分の父を謀殺した義朝の子ということになる。
この大蔵合戦に敗れた重隆の子能隆(よしたか)と孫重頼(しげより)は、本拠を河越に移し、河越氏を名乗る。『鏡』1180(治承四)年8月26日条に、重忠が河越重頼に援軍を依頼した時、重頼が武蔵の検校職で秩父氏や武蔵の武士たちを従わせる権利を持っていたとあるので、惣検校職は重忠の父重能にではなく、滅ぼされた重隆の子孫に継承されていたと考えられる。
重頼は、頼朝(大泉洋)の命により娘を源義経(菅田将暉)に嫁がせる。義経は後に頼朝と対立し、滅ぼされたが、重頼もいわゆる縁座によって所領を没収されたばかりか誅殺された。その時、重忠に武蔵国惣検校職が引き継がれた。以後、重忠は、武蔵国の政治・軍事の最高責任者となる。
(河越重頼の墓:養寿院:埼玉県川越市)
武蔵国は、律令制の時代に『大国(たいこく)』とされた国。当時、日本国内に66あった各国々は『大国』『上国(じょうこく)』『中国(ちゅうごく)』『下国(げこく)』の4つのランクに分けられていた。その最上位『大国』には、13の国々があった。つまり、武蔵国は当時としては国力(税収等々)では最上位の国だった。当時の関東で『大国』だったのは、武蔵国、上総国、常陸国、上野国、下総国の5つ。上総、常陸、上野は、親王任国で、天皇の子供たちが国司(守(かみ))に任命される特別な地域だった。下総は、幕府草創以来の有力御家人千葉氏の本領。となると、比企一族亡き後の武蔵国が北条時政のターゲットとなるのも当然なこと。ましてや、武蔵国惣検校職を引き継いだのは女婿畠山重忠。武蔵国は、このような背景があって、紛争の火種となったのである。
(妻ちえ(福田愛依)に最後の別れを告げる重忠)
重忠滅亡後、武蔵国惣検校職は、河越重頼の三男重員(しげかず)に引き継がれていくが、その権限は形骸化し、武蔵国守(国司)兼守護として、北条得宗家代々がその上に君臨していくことになる。