『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その130
第36回 武士の鑑
今回は、初登場長沼宗政(ながぬまむねまさ:清水伸)について
(中央が長沼宗政:清水伸)
彼の存在をご存知の方はいただろうか?かく言う私も、そんな人いたようないなかったような・・・という程度。お恥ずかしい。だが、高校日本史の教科書には絶対出てこない!番組HPによると、「下野の有力豪族である小山政光の息子で、結城朝光(高橋 侃(なお):宗政の異母弟)の兄。気性が荒く、しばしば暴言を吐く。」と紹介されている。
宗政の父小山政光(おやままさみつ)は、下野国の大領主で、10世紀前半に平将門を討った藤原秀郷(ひでさと)の末裔と言われる。源頼朝(大泉洋)に従って御家人となった。政光の妻は、頼朝の乳母の一人寒河尼。出た!乳母(笑)その寒河尼は、元服前の実子、後の結城朝光と共に頼朝のもとに参じ、頼朝は朝光の烏帽子親となっている(その108参照)。
政光の有名なエピソードを一つ。
1189(文治五)年7月25日、同月19日に奥州藤原氏征伐のため、大軍を率いて鎌倉を出立した頼朝は、下野国古多橋駅(こたばしのえき:栃木県宇都宮市)に着いた。饗応役の政光は、宴席で頼朝から「日本一勇敢な武士」として熊谷小次郎直家を紹介された。政光は、「何をもってその称号を与えたのですか」と頼朝に尋ねる。すると頼朝は、「一ノ谷の戦いで、親子ともに命を顧みずに何度も敵を攻めたからだ」と答える。それを聞いた政光は、大笑いしながら、「主君のために命を捨てることは、勇士皆が思っている事。直家だけのことではありません。また、直家のような従う家臣も持たないような者は、自らが直接手柄を立て、名を挙げなくてはなりません。私のような大名は、家臣たちを働かせて手柄を立てれば良いのです。もし、自ら手柄を立てろと仰るのであれば、次の戦では自分が戦って手柄を立て、比類のない勇士の称号をもらいましょう。」と言い放った。これは、当時の大領主の姿を示す好例として有名な話だ。(『鏡』同日条)
(藤原泰衡終焉の地と言われる贄(にえ)の柵(さく):秋田県大館市二井田)
話を宗政に戻そう。
宗政は、1162(応保二)年、前述したような大領主政光の次男として生まれた。二十歳の時、常陸国を拠点に頼朝に反抗した志田義広(頼朝の祖父為義の三男:頼朝の叔父にあたる)の追討軍に加わり、義広の乳母子多和利山七太(たわりやましちた)を射止め、戦いで負傷した兄朝政の代理として、頼朝に戦勝の報告をしている。
(野木宮の戦いで小山朝政が陣を張ったと言われる野木神社:栃木県下都賀郡野木町)
治承寿永の内乱(源平合戦)の際には、源範頼(迫田孝也)に従軍し、手柄を立てたとして頼朝から褒状を受けている。(『鏡』1185(文治元)年3月11日条)その後、奥州征伐、比企能員(佐藤二朗)追討、畠山重忠(中川大志)追討、さらに承久の乱においても幕府軍の一員として従軍している。
1195(建久六)年5月15日、京六条若宮で三浦義澄(佐藤B作)の郎党(家来)が足利有綱の下人と乱闘騒ぎを起こした。当時頼朝は、東大寺再建供養のため、御家人たちを引き連れて上洛していたのだ。この騒ぎは、郎党と下人の乱闘だけで収まらず、義澄の宿所には和田義盛(横田栄司)らが、足利有綱の宿所には小山朝政(中村敦)、長沼宗政らが集まって、一触即発のような事態となった。結果的には、頼朝が梶原景時(中村獅童)を遣わし、和睦を命じることで、事態は収拾された。今話で、重忠が討たれたのは、稲毛重成(村上誠基)のせいだと八田知家(市原隼人)から聞かされた宗政が、頭に血を上らせて重成を捕らえ、引っ立てにきた三浦義村(山本耕史)に食ってかかった場面があった。先述した京での一件がモチーフになっているのではと思う。
(重成を引っ立てにきた義村に食ってかかった宗政)
1199(正治元)年10月28日、弟結城朝光が景時の讒言によってその身が危うくなった時、ドラマにもあったように、千葉常胤(岡本信人)、三浦義澄、畠山重忠ら60数名が景時弾劾の訴状を作成した。その時、宗政は名前は書いたが、花押(サイン)は書かなかった。『鏡』は、弟を助けるために皆が力を貸してくれているのに、兄がその気持ちが薄いとは何事だと宗政を批難している。翌年2月6日、兄朝政は、和田義盛、畠山重忠らと雑談をしていた。討ち取られた景時の最期が武士らしくないと言うような話になった時、兄朝政は、「自分の弟(宗政)はいつも俺は小山家で一番武勇に秀でていると自慢しているが、景時弾劾の時には、その威を恐れて花押を書かなかった。今後は、このことを恥と思って、大きな口を叩くな」と皆の前で諌められている。ここまでは、ドラマで描かれなかったものも含めて、今話までの宗政。
(二代将軍頼家に景時弾劾状を出す場面)
重忠滅亡後に起こった牧氏事件で宗政は、尼御台政子(小池栄子)の命で弟の結城朝光、三浦義村、三浦胤義(岸田タツヤ)らと共に、命を狙われた将軍実朝(柿澤勇人)を警備しつつ、御所から義時(小栗旬)邸へ渡らせている。この時、将軍警備に集められた宗政たちは、時政(坂東彌十郎)が自らの企て実行のために呼び集めた勇敢な武士たちだったが、皆義時側についてしまったので、時政は、「事なり難し」と悟って突然出家してしまったと『鏡』は記す。
(三浦胤義)
1213(建暦三)年9月19日、すでに討ち取られた畠山重忠の末子、大夫阿闍梨重慶(たいふあじゃりちょうけい)が謀反の疑いをかけられた。宗政は、将軍から生捕りにしてくるよう命じられ日光山に向かった。同月26日、宗政は、夜になって重慶の首を持って戻ってきた。将軍実朝は、「重忠は元々濡れ衣を着せられて討たれてしまったのだ。その末子がたとえ謀反の企みがあっても大したことではないのではないか。だから、生捕りにした上で、罪の有無を取り調べるべきなのに、殺すとは何事か。宗政のしたことは軽はずみに過ぎる」と使いを通じ、その怒りを露わにした。
(三代将軍源実朝)
ここで、ただただ平伏して実朝に許しを乞えばよかったが、宗政はしなかった。実朝の怒りを伝えにきた使いに、「あいつの陰謀は間違いない。生け捕るのは簡単だが、将軍のところに連れてくると、尼御台政子様や周りの者があーだこーだ言い出して、結局許すだろうことを予め見越していたので、殺したのだ。これは将軍実朝様の誤りだ。」さらに、「今の将軍は、和歌や蹴鞠に執心して、武芸は廃れ、女性に重きを置いているので、勇士はいないも同然。」とまで言い放った。『鏡』は、この後も宗政はたくさんの過言(かごん:無礼な言葉)をさんざん吐き出して御所を後にし、将軍の使いも、一言も言わずに席を立ったと伝えている。
翌閏9月16日、兄朝政は「自分が弟の責任を持つ」と幕府に願い出たことによって、宗政の勘気(かんき:お咎め)が解かれ、幕府への出仕が許されたとあるので、実朝への暴言によって、幕府への出仕が停められていたことがわかる。気性の荒さ、暴言癖ありとキャラ付けされたモチーフとも言えるエピソードだ。
宗政はまた、地頭職(じとうしき)を与えられては配置換えということを何度かしている。『鏡』によると、1236(嘉禎二)年7月17日、頼朝時代に与えられた信濃国善光寺領の地頭職を1211(承元四)年8月11日に解任されたという。しかし、地頭解任後も宗政の代官(代理人)が強引に支配しているので、寺の住職らが幕府に泣きついてきた。そこで、幕府から正式に支配の停止を命じられた。20年以上もの間、宗政は実効支配していたということになる。武家の間の土地等の領有に関しては、20年が一つの区切り。たとえ、人のものであってもその期間を過ぎれば、持ち主に返還しなくて良いという慣例がある(知行年紀法)のだが、相手が寺社ということで適用されなかったのか、特例だったのかはわからない。いずれにしても、宗政がかなり強引な人であったことは推測できる。
1240(仁治元)年11月19日、本領の下野国長沼において死去。79歳だった。『鏡』では前淡路守と肩書きを記しているので、淡路国を支配していたと考えられる。
(長沼宗政の墓:宗光寺:栃木県真岡市)