『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その120 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その120

第33回 『修善寺』

今回は、実朝(いよいよ来週から柿澤勇人)の正妻西八条禅尼(配役不明)について

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。源実朝(柿澤勇人)(C)NHK― スポニチ Sponichi Annex 芸能

(三代将軍源実朝:柿澤勇人:西八条禅尼の写真がない 泣)

 

 三代将軍となった実朝は、京から名門坊門(ぼうもん)家の姫を娶る。この姫のお迎えに行ったのが、時政(坂東彌十郎)・りく(牧の方:宮沢りえ)の子政範(配役不明)だ。この時に、畠山重忠(中川大志)の息子重保(配役不明)と時政の女婿平賀朝雅(山中崇)が口論をし、最終的には畠山一族族滅へと続いていくことは以前にも書いた(その117参照)。

 

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(右:畠山重忠(中川大志):いよいよ重忠の最期が近づいて来た)

 

 実朝の正妻は、名門坊門家の姫君。摂関政治の時代を築いた藤原北家の血筋だ。もう少し細かく言うと、藤原道隆の子孫だ。道隆は、日本史の教科書にも太字で出てくる藤原道長の兄。摂政・関白を歴任したが、その死後は、弟である道長の子孫たちに摂政関白の座が独占されていく。先ほど名門と書いたが、摂関政治全盛期には、取り残された感が満載の家柄となった。

 

 姫の父の名は、坊門信清(のぶきよ)。同母姉が天皇に嫁ぎ、後鳥羽天皇(尾上松也)を産んでいる。後鳥羽から見れば、信清は母方の叔父(外叔父)となる。つまり、姫は後鳥羽上皇のいとこと言うことになり、朝廷と幕府をつなぐ架け橋的な存在であった。父の信清も、『鏡』を見ると時々姫に使いを送ったりしているので、朝廷と幕府との連絡係のような存在だったといえる。

 

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(姫とはいとこの関係の後鳥羽上皇)

 

 西八条禅尼と言う名前は、実朝が公暁に暗殺された翌日、鎌倉の寿福寺で出家した時の法名。実際の名前はわからない。「信子」と言われたと言う説もあるが、はっきりとはわからない。なので、ここでは姫と呼ぶことにする。

 

 ちなみに、北条政子(小池栄子)と言う名前も、生まれた時に付けられたものではない。彼女に「政子」と名前がつけられたのは、1218(健保六)年、従三位の位を朝廷から受ける際、公文書(位記:いき)に名前を書かなければならなかったので、父時政の一字をもらう形で「政子」と書いたに過ぎない。夫頼朝も、父時政も、「政子」という名前は知らなかった※1。

 

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 閑話休題

 

 姫は、1204(元久元)年12月10日、実朝の正妻として鎌倉に下ってきた。姫は12歳、夫実朝は、13歳だった。実朝は、1219(健保七)年1月、甥の公暁(こうぎょう)に殺されるので、二人は15年間連れ添ったことになる。二人の間に子供はいなかった。『鏡』で姫を追っていくと、実朝と共に鶴岡八幡宮に詣でたり、永福寺(ようふくじ)に花見に出かけたり、儀式などにも二人で連れ立っている記事が散見されるので、二人の仲は良かったのだろう。ちなみに、実朝は側室を持たなかったと言われる。”あの”頼朝(大泉洋)の血を引いているにもかかわらず、これは驚き(笑)義母である政子とも一緒に出かけたりしているので、嫁姑の関係も良好であったと推測される。

 

永福寺:よみがえった「幻の大寺院」、頼朝が恐れた怨霊(6) | nippon.com

(CGで再現された永福寺:湘南工科大学 長澤・井上研究室制作)

 

 また、姫は、和田義盛(横田栄司)の乱の時、頼朝が葬られた法華堂に実朝と共に緊急避難したが、このこと以外で事件や策略などで翻弄された記録はない。彼女は、1274(文永十一)年、82歳の天寿を全うした。元寇(文永の役)の一月前のことだった。

 

※1参考文献『史伝 北条政子 ~鎌倉幕府を導いた尼将軍』山本みなみ著 NHK出版新書(KIindle版)