『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その113 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いじゃない先走りコラム その113

第31回 諦めの悪い男

今回は、源仲章(みなもとのなかあきら:生田斗真)について

 

鎌倉殿の13人:“源仲章”生田斗真がいよいよ! 北条義時と後鳥羽上皇の間で暗躍 野心の行方は? - MANTANWEB(まんたんウェブ)

 

 源仲章は、広い意味で源氏の一族。広い意味でと書いたのは、一口に源氏と言ってもその流れは21もある。全て上げると次のようになる。

(1)嵯峨源氏(さがげんじ)(2)仁明源氏(にんみょうげんじ)(3)文徳源氏(もんとくげんじ)(4)清和源氏(せいわげんじ)(5)陽成源氏(ようぜいげんじ)(6)光孝源氏(こうこうげんじ)(7)宇多源氏(うだげんじ)(8)醍醐源氏(だいごげんじ)(9)村上源氏(むらかみげんじ)(10)冷泉源氏(れいぜいげんじ)(11)花山源氏(かざんげんじ)(12)三条源氏(さんじょうげんじ)(13)後三条源氏(ごさんじょうげんじ)(14)後白河源氏(ごしらかわげんじ)(15)順徳源氏(じゅんとくげんじ)(16)後嵯峨源氏(ごさがげんじ)(17)後深草源氏(ごふかくさげんじ)(18)亀山源氏(かめやまげんじ)(19)後二条源氏(ごにじょうげんじ)(20)後醍醐源氏(ごだいごげんじ)(21)正親町源氏(おおぎまちげんじ)

 

 『~源氏』と言う言い方は、系図を遡って最初に突き当たる天皇の名前を冠している。以前にも書いたが、臣籍降下、つまり天皇家の血筋を引くものが家臣となった者たちだ。最初は、814(弘仁5)年に嵯峨天皇の4人の皇子と4人の皇女が親戚降下したことに始まり、嵯峨天皇時代には男女の御子50人のうち32人が皇籍離脱し、臣籍降下して『源』姓を賜与された。嵯峨天皇の時代に大量に臣籍降下があったわけだが、子供が50人と言うのは凄すぎる 笑。

 

 『源(みなもと)』の字は、中国魏王朝の世祖(三国志で有名な曹操の息子曹丕)が、同族の子供を臣籍降下させた時、「卿と朕とは、源を同じうす。ことによりて、姓を分かつ。いまより『源』を氏とすべし」と言う『魏書』の故事に倣ったものと言われている。

 

曹丕 - Wikipedia

 

 鎌倉幕府を草創した源頼朝が清和源氏というのは有名だが、源仲章は宇多源氏の流れだ。同じ源を名乗ってはいるが、武家の源氏とは全く違う血脈と言える。仲章は、都の貴族の源氏。ご先祖たちは、藤原摂関政治の時代に上手く立ち回って生き延びてきた。摂関政治が形骸化し、元天皇が政治を行う院政が始まると、仲章の父光遠(みつとお)は後白河法皇の側近(院近臣(いんのきんしん))として権力の中枢に関わる。息子である仲章も、後鳥羽上皇(尾上松也)に仕えた。

 

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 1203(建仁三)年7月25日、京にいた仲章は、「7月16日、東山の延年寺で全成の息子を探し出して処刑した」と鎌倉に伝えている。二代将軍頼家(金子大地)の病が重篤となり、各所で祈祷が行われている最中のことだった。また、北条氏が乳母子の千幡(三代将軍実朝:柿澤勇人)を次の将軍にしようと画策していた時期と重なるこの事件、仲章らが幕府と何らかのつながりが既にあったことを傍証していると言えよう。

 

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(討ち取られた全成の子阿野頼全(らいぜん:よりまさ))

 

 その後も尼御台政子(小池栄子)のために仏への願文を書いたり、京の後鳥羽上皇の様子を伝えたり、三代将軍実朝のお供で寺社に参詣したり、幕府特に実朝に近侍した。仲章の極官は従四位上(じゅしいのじょう)・文章博士(もんじょうはかせ)。大江広元(栗原英夫)が都下りの文官として重宝されたように、まだまだ政治的にも未熟だった幕府の文官としての地位を、実朝側近としての地位を確立したものと思われる。また、彼は朝廷と幕府に使える二重スパイだったと言う説もあるが、詳しいところはわからない。この辺りを三谷幸喜がどう描くか楽しみだ。

 

 1219(健保7)年正月27日、夜になって60cm程雪が積もっていた。実朝は右大臣就任拝賀のため、鶴岡八幡宮に参拝した。仲章は、突然気分が悪くなり自邸に戻った義時に代わって、将軍の太刀持となった。参拝が終わり、引き上げようとした時、実朝は甥の公暁(くぎょう:こうぎょう:寛一郎:上総介広常を演じた佐藤浩市の息子!)に暗殺された。仲章も義時と間違えられて討たれてしまった。『鏡』同年2月8日条は次のように伝える。

 

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 この日義時は大藏薬師堂にお参りをした。このお堂は夢のお告げによって建てられた。実朝が暗殺された日の戌の刻(午後8時ごろ)、お供をしていた義時は、夢のように白い犬を見てから気分が悪くなって、太刀持を仲章に代わってもらい、自邸に引き上げた。義時が将軍の側で太刀持をやると言うことを公暁は事前に知っていて、仲章は首を切られた。ちょうどその時、この祀られていた戌神様が、お堂の中に居なかったと言う。

 

 この記事は、義時が神に救われたことを誇張したものと思われるが、何とも哀れな仲章の最期と言える。

 

参考文献:奥富敬之著『日本家系・系図大事典』東京堂出版