『鎌倉殿の13人』~後追いじゃない先走りコラム 114
次回第32回 『災いの種』に向けて、慈円(じえん:山寺宏一)について
次回の予告を見ると、頼家(金子大地)はお風呂では死なないようですね。あと、やはり善児(梶原善)が始末するような予感が・・・。
(善児:梶原善:やはりこの人が・・・)
今回のコラムは、次回登場する慈円について。以前にもどこかで少し書いたような記憶がありますが、次回への予習ということで。
(慈円:山寺宏一)
慈円は、九条兼実(かねざね:藤原兼実とも:ココリコ田中直樹)の弟。平安時代に摂関時代を築いた名門藤原北家の血を受け継いでいる。
(九条兼実:ココリコ田中直樹)
摂政・関白・太政大臣(だいじょうだいじん)の重職を歴任した兄兼実は、ドラマでも描かれたように、頼朝(大泉洋)時代の幕政に大きく関わった人物だ。最終的に、頼朝の娘大姫(南沙良)、その妹三幡(太田結乃)の入内問題をきっかけに、娘を既に入内させていた兼実と頼朝との蜜月時代は終わる。頼朝の娘たちの入内は叶わなかったが、自分の娘が天皇の子を産み、その子が即位して天皇になれば、自分が天皇の外戚となる、という同じ目的においてライバルとなったのだ。
そして、後白河法皇(西田敏行)亡き後、即位した後鳥羽天皇(尾上松也)とは折り合いが悪かっただけでなく、政敵土御門通親(関智一)の娘が、後鳥羽の皇子(後の土御門天皇(つちみかど))を産んだことによって、反兼実派は勢いづき、兼実の娘は宮中から追い出され、兼実自身も関白を罷免され、失脚した(建久七年の政変)。兼実があまりにも厳格すぎて、周囲からの反発を受けたことが原因の一つと言われている。
(後白河法皇:西田敏行:懐かしい!)
(後鳥羽上皇:尾上松也)
(土御門通親:関智一)
一方の弟慈円は、11歳の時に比叡山延暦寺に入り、13歳で出家。道快(どうかい)と称した。その後、法印(僧位の最高位)となった時、法名を慈円と改めた(1181年)。後白河が他界した後、天台座主(天台宗のリーダー)となり、後鳥羽天皇の護持僧(祈祷を行う僧)となった。この頃、頼朝から越前国藤島荘の寄進を受けている。慈円が、学僧の育成を目指していたことを経済的に支援するのが目的だった。
先に書いた建久七年の政変で兄が失脚したため、慈円は自らも職を辞して蟄居した。しかし、後鳥羽上皇からの願いを受け入れる形で、朝廷のための祈祷を再開し、1201(建仁二)年には天台座主に復帰した。60歳を超えて職を辞したが、後鳥羽院、朝廷の要請で度々天台座主に復帰、その回数は4回に及んだ。天台座主に4回就任したのは慈円が初めて。
(現在の天台座主:第258代 大樹孝啓:御歳97歳:2021年11月22日就任)
その後、後鳥羽院との政見の食い違いから院への祈祷もやめた(1219年)。彼の日本通史『愚管抄(ぐかんしょう)』はこの頃に成立したと言われている。『愚管抄』は、『神皇正統記』(北畠親房)、『読史世論(とくしよろん)』(新井白石)とともに、日本三大史論と言われる。
『愚管抄』は、王法(天皇の政治)の盛衰が日本の歴史を形作っているという視点に立ち描かれている鎌倉時代前半の一級史料。当初慈円は、武士は王法の反逆者としていたが、頼朝の鎌倉幕府草創によって、武家を朝廷の守護と見るようになる。武家は、壇の浦の戦いで喪失した三種の神器のうちの草薙剣に代わる守護であり、もはや剣は不必要とまで言っている。こうしたことを語ることによって、後鳥羽上皇に討幕(承久の乱)を思い止まらせようとしたのだとも言われている。
今回の大河ドラマでこれから描かれる頼家暗殺や承久の乱などは、慈円の『愚管抄』抜きでは語ることはできない。
参考文献:『国史大辞典』吉川弘文館