『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その104
今回は、以前書き忘れた『もう一人の悲劇のヒロイン三幡(さんまん:乙姫(おとひめ)ともいう)について
第24回『変わらぬ人』で、幼き頃からの源義高(市川染五郎)への淡い恋心を成就することなく、1197(建久八)年7月、二十歳の若さでこの世を去った大姫(南沙良)。その遺体の前で、政子(小池栄子)の手を握りしめながら、「わしはまだ諦めんぞ。わしにはまだ成すべきことがあるのだ。小四郎(小栗旬)、すぐに三幡の入内の話を進める。」と言った頼朝(大泉洋)。何としても娘を天皇に入内させたいという執念を見せつけた『変わらぬ人』頼朝だった。
(頼朝が入内に執念を見せた相手後鳥羽上皇役尾上松也:次回登場予定!)
この時、名前の出た三幡のことは、第25回第26回では回収されていない。
頼朝は、1199(建久十)年1月、謎の死を遂げるが、父頼朝の死からわずか5ヶ月後、三幡も病死する。姉大姫と共に薄幸の姫だった。
『鏡』では三幡は、頼朝の死の2ヶ月後の3月5日に初めて出てくる。その時すでに三幡は重病で、以前から熱が出て下がらず、母政子は寺社に平癒祈願をし、御所では全成(新納慎也)が経をあげるという状態だった。
5月に入り、都から名医と評判の丹波時長が鎌倉にやってきた。時長自身はあまり乗り気ではなかったようで、何度も固辞したので、院から早く鎌倉に行けと命令を出してもらった。同月8日、時長の治療が始まった。最初に、朱砂丸(しゅしゃがん:水銀の一種?:『鬼滅の刃』の朱砂丸(すさまる)ではない笑)という飲み薬が処方された。この治療の褒美として砂金二十両(今の重さで330g位:現在の価値で言うと3,800,000円位※1)が与えられ、有力御家人たちには時長を毎日接待しろと言う命令まで出た。
同月29日、夕方になって三幡(乙姫)は、少し食事を口にし、皆が喜んだ。6月に入ると病状は急変。14日、2日前から目の上が腫れ上がり、三幡は急激に衰弱し、かなり危険な状態となった。時長はこの状態を見て、もはや助かる見込みはないと見放した。「凡そ人力の覃(およ)ぶ所に匪(あらず)也」と『鏡』は記す。つまり、もはや人知の及ばない状態で神頼みしかないと。
自分を取り巻く状況が思わしくない方向に向かいつつあると察した時長は、1日も早く京都に帰りたかった。しかし、上洛中だった三幡の乳母父中原親能(川島潤哉)が鎌倉に戻るのを待たされたため、同月26日、たくさんのご褒美をもらってやっと鎌倉を離れることができた。
(三幡の乳母父中原親能:川島潤哉)
時長が去ってから5日後の午剋(うまのこく:お昼頃)、三幡はわずか14歳の短い一生を閉じた。母政子は嘆き悲しみ、あまりにもたくさんの人々が嘆き悲しんだので、書ききれないほどだと『鏡』は記している。乳母父中原親能は出家、三幡の遺体は親能の亀ケ谷の屋敷内の持仏堂に埋葬された。
(大姫の墓所として有名な岩船地蔵堂:三幡の墓所とも言われる:鎌倉市扇ケ谷)
乳母父である中原親能が在京していたと言うことは、三幡の入内工作をしていたかもしれない。
ちなみに来週10日は参議院議員選挙速報のため、大河はお休みです。次回は7月17日です。お間違いのないように。
※1 現在、砂金はその希少価値から精錬された金よりも価値が上がることがあるらしい。『お
宝探検隊あおい商店』H.P.によると、2022年7月4日時点での差金の取引価格は、1gあたり
11,520円。時長に与えられた砂金二十両の重さは88匁。1匁=3.75gなので、総量330g。
これらを基に計算した数字が3,800,000円)