『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その105
第26回 悲しむ前に・・・と言うより第25回絡みかなぁ・・・
今回は、頼朝(大泉洋)の死に関わった稲毛重成(村上誠基)が架けた橋について
(現在のものは複製されたもの)
第25回『天に望まれた男』の『紀行』で取り上げられた稲毛重成が1198(建久9)年に架けた橋。関東大震災の余震で地中から出現した木の柱の数々が、国指定の史跡となっていると紹介された。
頼朝の死に関しては謎が多いが、この橋供養に出かけた帰りに落馬して、それが引き金となって命を落としたことは番組でも名場面として描かれていた。重成が亡き妻の供養のために架けたこの橋は、当時としてはとても立派な”ちゃんとした”橋だった。”ちゃんとした”と書いたのは、当時の土木技術のレベルから言って、大きな橋を作るのは大変困難で、多くの場合、川面に小さな船を並べ、その上に板を敷く、「浮き橋」「船橋」が用いられたからだ。重成は、妻の死を嘆き悲しみ、出家をしたと伝えられている。それほどまでに、妻(北条時政(坂東彌十郎)の娘で政子(小池栄子)の妹)の死は重成にとって大きな悲しみだった。その供養のために架けた橋なので、重成の気合が半端でなかったことが窺える。
(稲毛重成:村上誠基)
実はこの橋に関しては後日談がある。頼朝の死から13年後の1212(建暦二)年2月28日、この橋をめぐって幕府内部で話し合いが行われた。それは、相模川に架けられたこの橋の数カ所が、古くなって破損したので修理をしたらどうかと三浦義村(山本耕史)の提案を受けてのことだった。
この提案に対して、義時(小栗旬)、大江広元(栗原英夫)、三善康信(小林隆)らが討議した。
この橋は、建久九(1198)年に稲毛重成法師(すでに出家していたので、法師。入道と言われることもあった。)が新造し、頼朝は、この功徳との縁を結ばんと、供養に列席したが、その帰りに落馬して、程なく亡くなった。この橋を架けた重成も、畠山重忠謀殺の事件で三浦一族に殺された。この橋に関わったことで、縁起でもない事ばかりが起こっている。だから、今更作り直さなくても、いいんじゃねぇと言うことで修理をしないことを決定した。
この決定に対して、報告を聞いた三代将軍源実朝(さねとも:柿澤勇人)は、「頼朝の死は、武家のリーダーとして権力を握って20年後のことで、官位も頂点まで上った後の話である。稲毛重成は、自分が従兄弟であった畠山重忠を裏切ったことによって天罰を受けたのだ。橋を新造したことによる天罰ではない。だから、橋のことを不吉だと言うのはおかしい。あの橋のお陰で、民も便利で、その利益は大きいものだ。壊れてしまう前に、早く修理せよ。」と命じた。
実朝よくぞ言った!と言う感じ。橋に罪はなく、呪われた橋でもないことを見事に論じた実朝だった。