『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その98 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その98

第23回 『狩りと収穫』

畠山重忠(中川大志)のその後について

 

2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 on Twitter: "/ #畠山重忠(はたけやま・しげただ) #中川大志 \  義時と同年代の武蔵の若武者。謹厳実直な人柄で、義時とは互いの力量を認め合う仲。知勇兼備で武士の鑑(かがみ)と言われる。畠山家は平家とのつながりが深く、頼朝の  ...

 

 富士の巻狩りの際に頼朝(大泉洋)暗殺の企みがあると知った義時(小栗旬)と父時政(坂東彌十郎)は、時政の女婿畠山重忠も交えて、策を練る。「私がなんとかしましょう」という重忠に時政は、「頼りになる婿殿だ」と嬉しそうに語る。

 

画像・写真 | 【鎌倉殿の13人】頼朝憎し…曽我兄弟が謀反を計画 第23回「狩りと獲物」あらすじ 3枚目 | ORICON NEWS

(義時に巻狩りに乗じて頼朝暗殺計画があると聞き狼狽する時政)

 

 頼朝暗殺を企てる曽我兄弟とその一味は、途中で異変に気づいた仁田忠常(ティモンディ高岸)が十郎祐成(田邊和也)と一騎討ち、そして頼朝の寝所では重忠が待ち構えて五郎時致(田中俊介)らと戦う。寝所に忍び込んだ五郎は、比奈の下に夜這いをかけた頼朝の身代わりとなっていた工藤祐経(坪倉由幸)を頼朝と間違えて刺殺する。個人的には、「重忠、寝所に忍び込まれちゃダメじゃん!」と思った場面だが、頼朝暗殺は失敗に終わった。

 

 重忠は、時政の娘を娶っていたので時政から見れば婿殿。今話で二人は、阿吽の呼吸でうまくいく関係のように描かれている。こうした関係にヒビが入るきっかけになるのが時政の後妻牧(牧の方:宮沢りえ)だ。

 

鎌倉殿の13人:宮沢りえの美貌に注目集まる 時政パパを手のひらで転がすりく「悪女の香りぷんぷん」 - MANTANWEB(まんたんウェブ)

 

 1204(元久元)年11月5日の夜中、三代将軍実朝の正室を京から迎えるため、使者として遣わされていた時政と牧の方の子政範が在京中、病で急死した。16歳だった。遺体は、東山の鳥辺野(とりべの:平安京三大埋葬地の一つ)に埋葬された。同13日、その知らせは鎌倉の時政、牧の方に届いた。二人の悲しみは他に比べるものがないほどだったと『鏡』は伝える。

 

平安京「鳥辺野」裏付ける墓跡 京都・東山区で見つかる:朝日新聞デジタル

(東山区鳥辺野で見つかった平安時代の墓跡:朝日新聞デジタル20191005)

 

 政範が亡くなる前日(4日)、ちょっとした揉め事があった。平賀朝雅(鎌倉殿の代官として交渉ごとに当たる京都守護:時政の女婿)の屋敷での宴会の最中、朝雅と畠山重保(重忠の子:政範と共に実朝の正室を迎えに上洛していた)が口論になった。この時、何が原因で二人が口論になったかは不明だが、この時は周囲の仲裁でことなきを得た。しかし朝雅は納得できず、妻の母牧の方に重保の父畠山重忠を陥れるような讒言をした。

 

鎌倉殿の13人』平賀朝雅役に山中崇 小栗旬からの「うさん臭いですね」にも喜び(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース

(山中崇は朝ドラ『ちむどんどん』で東洋新聞デスク役もこなす)

 

 『北条九代記』(時政以降、北条の家督を継いだ9代の間の事件を編年体で記した史書:14世紀前半に成立)は、「重忠は時政の前の妻の娘婿、朝雅は牧の方の娘婿で、牧の方は朝雅を殊更に可愛がっていた。義理の母ではあるが、牧の方は、重忠を疎み、朝雅を可愛がるあまり、時々夫時政に重忠父子が謀反の心を持っていると悪口を言っていた。また、稲毛重成は重忠の従兄弟であるが、重忠と仲が悪かったので、牧の方と心を合わせて重忠を滅ぼそうとしていた。」と伝える。

 

 『鏡』では、牧の方が朝雅を可愛がっているというような記述はないが、朝雅が重保から悪口を言われ、思い悩んでいたので重忠親子を征伐しようと密かに相談していたと伝える。相談された時政は、義時と時房(瀬戸康史)に相談。二人は、「重忠が頼朝挙兵以来、忠義を表していること、比企能員(佐藤二朗)を討った時も、将軍頼家側だったにも関わらず北条に与し、働いてくれたこと。それは時政との親子の義理を重んじたからに他ならない。なのになぜ今になって、その親子の義理に反して反逆を企てることがあるのか。事の真偽をちゃんと明らかにしてからでも遅くはないのではないか。」と父時政に慎重に行動するよう促した。

 

 牧の方の兄(父?)である牧宗親(亀の前事件でもとどりを切られた人物:山崎一)は義時の下を訪ね、「重忠の謀反は既に発覚しているからこそ、国の為、将軍の為に時政に知らせたのだ。それを重忠に代わって、誤魔化そうというのか。私(牧の方)が義理の母だから重忠に対して悪巧みをしていると罪を着せようとしているのか」と牧の方の気持ちを伝えた。義時は「再考します」と答えた。(6月21日条)

 

 翌21日、早朝から鎌倉中が「謀反人を成敗する」と武士たちが由比ヶ浜に走っていた。これを聞いた重保は従者3人を引き連れて浜に向かったところ、時政に命じられた三浦義村(山本耕史)らに囲まれて戦となり、重保は多勢に無勢で主従共々討ち取られてしまった。

 

畠山重保の宝篋印塔

(若宮大路にある畠山重保の墓と伝わる宝篋印塔)

伝畠山重保墓

(禅林寺(横浜市金沢区釜利谷)にある畠山重保の墓と伝わる五輪塔)

(畠山重保邸跡の建てられている石碑:若宮大路)

 

 重忠が鎌倉に向かっているとの噂が流れたので、途中で討ってしまおうということになり、義時以下の大軍勢が鎌倉を出立した。一方、重忠の軍勢はわずか134騎。男衾郡菅谷(埼玉県比企郡嵐山町)の館をでて、鶴ヶ峰(神奈川県横浜市旭区)の麓に陣を敷いた。両軍は武蔵国二俣川で遭遇。重忠はここで子息重保が謀殺された事を知る。重忠の家臣は、大軍が相手なので一度本拠に引き上げ、軍勢を整えることを提案した。しかし重忠は、「重保が討たれた今、家を忘れ、親を忘れて戦うのが武士の本分だ。梶原景時(中村獅童)が追手から逃れ、自らの館から京に上ろうとして討たれたのは、暫しの命を惜しんだからと思われるし、前々から陰謀を企てていたと思われるような行動で武士として恥ずべき事だ」と言った。

 

菅谷館跡 - 埼玉県立嵐山史跡の博物館

(菅谷館跡:埼玉県比企郡嵐山町:現在のものは戦国時代に手が加えられたもの)

畠山重忠の乱|二俣川古戦場|畠山重忠公終焉の地(横浜市旭区) - 鎌倉暮らしDiary

(横浜市旭区にある重忠関連の案内板)

 

 重忠軍に義時の大軍が襲いかかった。重忠は奮戦し、何人もの敵を倒した。昼過ぎに始まった戦いは、なかなか決着がつかなかったが、午後4時頃、重忠は愛甲三郎季隆が放った矢に当たり、季隆によって首を取られた。享年42歳。

 

畠山重忠の乱|二俣川古戦場|畠山重忠公終焉の地(横浜市旭区) - 鎌倉暮らしDiary

(重忠終焉の地碑:横浜市旭区)

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。 | 国内観光情報

(首洗い井戸案内板:横浜市旭区)

畠山重忠の乱|二俣川古戦場|畠山重忠公終焉の地(横浜市旭区) - 鎌倉暮らしDiary

(重忠首塚案内板:横浜市旭区)

 

 翌日鎌倉に戻った義時は、「重忠はわずか百騎ほどで、とても謀反を企てたとは思えません。これは讒訴によって征伐されたに違いない。重忠があまりにも気の毒だ。首実検の時に旧知の友の目を見た時、悲しくて涙が止まらなかった」と時政に報告した。夕方6時頃になって、三浦義村は、鎌倉経師谷(きょうじがやつ:鎌倉市材木座)で、重稲毛重成、榛谷重朝(はんがやしげとも)らを討ち取った。重成は、「今、鎌倉で戦が起こっている」と重忠に手紙を書き、重忠を誘き出した張本人だった。

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(材木座海岸を見下ろす:材木座霊園HPより)

 重忠謀反は間違いだったことがわかったが、死んだ重忠は戻ってこない。鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠はこうして命を落とした。鶴ヶ峰の古戦場跡には、重忠が死の直前に「我が心正かれば、この矢にて枝葉を繁茂せよ」と言って突き刺した二本の矢が、自然に根付いて増え続け『さかき矢竹』と呼ばれるようになったとその由来が書かれた案内板、首洗い井戸、首塚跡などがある。また、重忠の子重保の墓が、鎌倉若宮大路を由比ヶ浜向かう途中に、さらに、その重保が討死した時、扇ケ谷の観音山(石切山ともいう)から一部始終を見ていた重保の妻が、夫がなぶり殺しにされているのを見て、悲しみのあまり石になったという『望夫石』もあった。今、その石を見ることはできない。

(さかき矢竹案内板:現在の竹は重忠のそれではない)