『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その65 | nettyzeroのブログ

nettyzeroのブログ

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』に特化したブログ。
からの〜徒然なるままに・・・

『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その65

第14回 都の義仲

 

今回は義経(菅田将暉)と景時(中村獅童)について

 

 平家追討軍の搦手軍大将となった義経。その副官は、侍所所司梶原景時。その64でも少し書いたが、景時は壇ノ浦の戦いの約1ヶ月後に合戦の詳細を頼朝に書き送った。その手紙の中に、義経の義に反することの数々が書かれていた(『鏡』1185(元暦二)年4月21日条)。

 

梶原景時~鎌倉殿の13人~ | kurouの鎌倉メモ

(梶原平三景時像:東京 馬込 萬福寺蔵)

 

 義経は平家に勝利したのは自分の手柄のように言っているが、皆の合力あってこそのものだ。それを義経は理解していない。大手軍大将範頼(迫田孝也)は、鎌倉殿の命令を遵守し、副官である侍所別当和田義盛(横田栄司)らの意見をよく聞いて行動している。自分はそんな義経を諌めようとしたが、それを聞き入れようとせず、返って自分の身に危険が及びそうになった。平家を滅ぼした今となっては、早く義経の下を去って、鎌倉に帰りたいものだ。義経は、自分勝手な考えで、頼朝の命令を守らず、物事を強引に進めていくので、景時のみならず、武士たちの恨みをかっていると。

 

 景時が鎌倉に送った使者は、翌5月4日、頼朝からの文を携え、景時のいる九州に戻ってきた。そこには義経の落ち度を責め、以後は義経の命令に従うなと書かれていた。

 

 義経と景時は、平家との合戦の最中にも意見が合わず、対立をすることがあった。

 

 屋島の戦いの直前、景時は軍船の船首船尾両方に櫓をつけて、俊敏に動けるようにしたほうが良いと義経に提案するが、一蹴される。はじめから退却の準備をするようなことは縁起でもない。自分は何も細工しない船で戦うと。

 

逆櫓の松

(逆櫓の松址:大阪府福島区:義経と景時はここで論争したと言われる)

 

 景時は、攻撃一辺倒で戦う者を猪武者と言って、良い大将とは言わないのだと応酬。それでも義経は、戦いというのは猪でも鹿でも何でも良いが、一気呵成に攻めて勝つのが良いのだと取り合わなかった。いわゆる『逆櫓論争』と言われる出来事だが、この時、周りにいた武士達は、義経と景時が同士討ちをするのではないかと騒ぎになったと『平家物語』は語っている。

 

 義経は150艘のうちの5艘を従えて奇襲攻撃に成功する。遅れて到着した景時は、『六日の菖蒲』と嘲笑された。菖蒲は端午の節句(5月5日)に欠かせない。6日では何も役にたないという意味だ。

 

 こうしたことの積み重ねが、先の手紙の素となっていると思われる。景時の頼朝への讒言は義経以外にも度々あったが、その都度、頼朝が取捨選択していた。景時もそうした頼朝の才を知った上での讒言だったと思われる。しかし、若くして二代将軍となった頼家は、頼朝のようなマネはできなかった。讒言で討たれそうになった御家人達の恨みをかった景時は、讒言が原因で滅亡していくことになる。