『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その56
第12回 亀の前事件
今回は、大江広元の意味深な一言について。
今話の最後。
大江広元(栗原英夫)「鎌倉は安泰にございます。ただ一つ気になったのが・・・」
源頼朝(大泉洋)「言ってくれ。」・・・つづく
気になる終わり方だった今話。広元の一言は、どんな意味なのか?ネット上で色々と呟かれていて、気になるところ。そこで今回は、今後の展開を踏まえた大胆な予想を。私は三谷幸喜ではないので、当たるも八卦、当たらぬも八卦ですが・・・笑
ズバリ!気になったのは、上総介広常(佐藤浩市)と予想する。
二代将軍となる頼家(金子大地)が生まれたのは、1182(寿永元)年8月12日。その乳母をめぐり比企能員(ひきよしかず:佐藤二朗)と不穏になった上総介広常。その時、広元は広常を一瞥する。そこからは「鎌倉殿の御前で無礼なやつ」という心の内が読み取れる。
頼朝に若君が誕生し、まさに源氏は安泰。その安泰を脅かす者は何か、頼朝に頼りにされている広元は考えたはず。そして御前で無礼な振る舞いをした広常を警戒したと私は推測する。
三浦氏や千葉氏をも上回る大領主広常。富士川の合戦後も頼朝に板東での自立を主張するなど、朝廷何するものぞという考えを持っている。朝廷や皇室を大切なものとして関係構築をしたい頼朝とは、いずれ決定的に対立する。都の権謀術数渦巻く中で鍛えられた広元なら瞬時にこうしたことが脳裏に浮かんだはず。そして、広常は排除するべきと。
コラムのその21でも書いたが、頼家誕生の翌年、1183(寿永二)年の暮れ、上総介広常は自邸で梶原景時(中村獅童)に斬殺される。『鏡』が欠損しているため詳細は不明だが、『愚管抄(ぐかんしょう:慈円(じえん:藤原兼実(ココリコ田中)の弟で天台座主)の史論書)』では、双六の最中に突然景時が広常の首を刎ねたという。
後、上洛した頼朝は、後白河法皇(西田敏行)と面会した際、「広常は東国きっての有力者だが、朝廷・皇室を軽んじる言動があり、そのような者を家人として持っていると神仏の加護を失うことがあると思い殺した。」と広常斬殺は頼朝の命であったと話している。
(上総介塔:上総介広常の供養塔(五輪塔)と言われる:横浜市金沢区)
「小四郎(小栗旬)は決して手放してはなりません。まだ若く、しくじりもありますが、あの者は鎌倉殿に忠義を尽くします。」この広元の言う『忠義』が予想の大ヒントとなった。広常なりに頼朝への忠義は尽くしていたし、彼の死後、それが証明されるのだが・・・。
私の予想は当たっても何も変わらないが、でも当たってほしいのは何故だろう 笑。