『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その55
第12回 亀の前事件
文官として招かれた3人の都下りの貴族たちについて。(その2)
今回は中原親能(川島潤哉)・藤原行政(野仲イサオ)について。
(上:中原親能(川島潤哉)、下:藤原(二階堂)行政(野仲イサオ))
親能は前回書いた大江広元の6つ年上の兄である。『鏡』では、1184(元暦元)年2月5日、一ノ谷の戦い直前、源義経(菅田将暉)率いる搦手(からめて:正面ではなく別方面から攻める)軍2万の中に「齋院(さいいん)次官(賀茂神社へ奉仕する皇女たちに関する事務管理を行う役所のナンバー2)親能」として初めて登場する。親能は文官なので、戦闘員というよりもさまざまな交渉ごとがあった時の要員と思われる。
親能は、頼朝の命による朝廷との交渉事などを何度か負っている。朝廷との交渉役として頼朝の信頼があったようだ。
弟の広元が公文所別当に任ぜられた時、親能は公文所の寄人(よりうど:職員)として『鏡』に記されている。そして、頼朝の死の直後、1199(健久十)年4月12日、親能は在京のまま、二代将軍頼家を支える鎌倉殿の13人となる。1208(承元二)年12月18日、在京のまま亡くなった。66歳。すでに出家し、寂忍と名乗っていた。鎌倉にいた弟広元とともに頼朝のために鎌倉ー京都間を奔走し、朝廷工作に捧げた人生だった。
藤原行政(生没年不詳)は、公文所(政所)の寄人として頼朝の信任を得た人物だ。彼の母は熱田神宮大宮司藤原季範(すえのり)の妹。頼朝の母は季範の娘だから、二人は義理の叔父、甥の関係にある。頼朝に請われて鎌倉に下向したのもこうしたことが大きな要因であろう。
また、行政は『二階堂氏』の祖となる。
頼朝が奥州藤原氏を滅亡させた時、藤原清衡創建で二階大堂とも言われた中尊寺の大長寿院(高さがなんと15mもあったと『鏡』は記す。1189(文治五)年9月17日条)の凄さに魅せられた頼朝が、鎌倉にもこんなすごいのを造りたい!と真似て造った永福寺(ようふくじ)。当時では珍しい二階建ての大堂だったので、永福寺一帯の地域名が『二階堂』となった。永福寺は鎌倉宮から瑞泉寺に向かう途中のテニススコートあたり一帯に造営されたが、現在は室町時代に焼失したまま再建されず、鎌倉市によって跡地の公開と保存作業が行われている。
(永福寺跡:礎石があるので、この場に立って往時を想像するのが楽しい(個人の感想)笑)
(CGで再現された往時の永福寺:鎌倉市&湘南工科大学によるコラボ事業)
行政はこの永福寺近くに邸宅を構え、二階堂を名乗った。行政の子孫は、大繁栄し、鎌倉幕府の政治や裁判などを支えた。その一族は、鎌倉時代に北条氏に次いで最多とも言われる。
(参考文献:奥富敬之著『日本家系・系図大辞典』東京堂出版(2008))