『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その48
第11回 許されざる嘘
若宮大路について。
鶴岡八幡宮から海に向かってまっすぐ伸びる若宮大路。中央には一段高くなった段葛(だんかずら)があり、趣を異にする参道だ。この若宮大路は、第二子(頼家)を懐妊した御台所政子(小池栄子)の安産祈願のため、源頼朝(大泉洋)自ら陣頭指揮に立ち、北条時政(坂東彌十郎)ら御家人たちが土石を運んで造営された(『鏡』1182(寿永二)年3月15日条)。
(現在の段葛)
(段葛改修前の若宮大路:真夏でも木陰が涼しい段葛だったなぁ・・・)
また、最近の研究で段葛はこの時に造営された道ではないことがわかっている。(拙著『鎌倉謎解き散歩』では、同時に段葛も作られたと記述してしまった。訂正してお詫びします。)段葛は、鎌倉の街づくりのために周辺の山々から木を切り出したため、山の保水力が低下し、雨が降ると大路がぬかるんでしまうのを防ぐために作られたと言われている。その造営時期は定かではない。鎌倉時代の史料には『段葛』の名は見られない。
今では数々のシャレオツな店が立ち並び、観光客が行き来する若宮大路だが、当時の様子は全く違う物であったことが発掘調査などからわかってきた。
若宮大路の幅は約33m。現在よりも約10mほど広かった。また、二の鳥居から三の鳥居までの間には、道の両端に幅約3mの木組みの側溝があった。このあたりには御所や執権邸があり、特別な場所だった。
また、現在の鎌倉警察署前あたりでは、有力御家人の屋敷が立ち並ぶ大路の東側が西側よりも高くなっている。これは、西から攻められた時の防衛線だと言われてきたが、最近の研究では先述の側溝や一段高い土地は湿地帯対策だと言われている。
これも発掘調査によってわかったことだが、当時館の奥に造られる鍛冶場などが、大路に面して造られていた。つまり、大路を背にして家が建てられ、大路側には玄関がなかったのだ。当時の若宮大路の両端は、板塀もしくは築地が連なったとても殺風景な場所だったのだ。
『鏡』1257(康元)年2月2日条に、当時大路の東側にあった若宮幕府から6代将軍宗尊(むねたか)親王が西門から出て鶴岡八幡宮に向かったという記事がある。つまり、将軍御所は特別に若宮大路に面した玄関があったのだ。
(鎌倉幕府歴代将軍系図)
鎌倉時代の若宮大路は、特別な神聖な道。今とは全く違う若宮大路を現場に行って空想時間旅行がしたくなってきた。
(参考文献:『古都鎌倉の観光資源「段葛」の成立時期とその後の展開』土木史研究講演集vol.36(2016))