『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その46 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その46

第10回 根拠なき自信

 

大庭景親(國村隼)の最期について

 

 1180(治承四)年10月23日、富士川の勝利に沸く頼朝軍は相模国府に到着し、論功行賞が行われた。そこに囚人大庭景親が連行され、処分が決定するまで上総介広常(佐藤浩市)に預けられた(『鏡』同日条)。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第10話。大庭景親(國村隼)に刀を向ける上総広常(佐藤浩市・左)(C)NHK― スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

 景親は、10月18日、千騎の手勢を引き連れて平家の軍勢に加わろうとしたが、頼朝が二十万に及ぶ大軍を従えて、足柄山を越えたのを知り、「前途を失い」河村山(神奈川県山北町)に逃げていった。行き場を見失ったと共に、万事休すという感じで逃げたのだと思う。

 

 広常に預けられた景親は、10月26日、「固瀬河(かたせがわ)」のあたりで梟首(きょうしゅ:晒し首:江戸時代になると獄門といわれた)された。身柄を預かっている者に処分が伝えられ、処刑するのが普通なので、広常もしくはその家人によって処刑されたと思われる。しかし、その場で処刑され晒されたのか、別の場所で処刑されて首だけここに晒されたのかはわからない。

 

 ドラマでは、時政(坂東彌十郎)と義澄(佐藤B作)が、「一つ間違えば、俺たちの首があそこに掛けられてたんだなぁ」「悪い男ではなかった」と語っていた後ろの川が「固瀬河」、そう、片瀬川。現在は、境川河口付近を片瀬川とも呼ぶが、この川は、景親の所領大庭御厨(おおばみくりや)の東の境界線に当たる場所。つまり、景親は自らの所領に梟首されたということ。今で言えば、自宅の前に晒されたイメージとも言えるかもしれない。

 

1月17日 江ノ島~片瀬川河口 | パックロッド生活 - 楽天ブログ

(現在の片瀬川河口付近)

 

 首を晒すというのは見せしめ。ちょっと前まで、自分達の主人だった景親がみるも無惨な姿を晒す。ドラマでは、時政、義澄と共に武士や農民などさまざまな人たちが景親を見ていた。「これからお前たちを従えるのはこのわしじゃ」と頼朝の声が聞こえてきそうな場面だった。

 

 『源平盛衰記』の景親最期の場面は全く違う。以前にも書いたように、読み物なので信憑性には問題があるが、最後に紹介したいと思う。

 

 広常に預けられていた景親は、頼朝の御前に縛されたまま連れてこられた。それを見た景親の兄景義(配役なし)が、他人の手に掛るよりはと自ら景親を切ったという。

 

 景義は、頼朝挙兵時から頼朝に与していた武将で、義朝時代からの家人である。保元の乱で強弓で有名な源為朝(ためとも)に足を射抜かれ、大庭の家督は景親が継ぐことになった。そして、懐島(ふところじま:神奈川県茅ヶ崎市)を根拠地に頼朝・頼家・実朝の三代に仕えた。

 

神明大神宮 

(大庭景義館跡:円蔵神明大神宮:茅ヶ崎市)

 

景義キャスティングしてくれないかなぁ・・・