『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その44
第10回 根拠なき自信
登場人物おさらい その3
足立遠元(あだちとおもと)について。
実衣(宮澤エマ)が「あれが一番得体が知れない」と言った足立遠元(大野泰広:私と一字違いなので親近感マックス(笑))。彼は、藤原摂関政治で有名な藤原北家(ほっけ)の家系で、頼朝の父義朝の代からの家臣だ。『平治物語』(平治の乱を描いた軍記物:13世紀半ばに成立?)でその活躍が描かれている。
1159年12月9日丑の刻(午前2時ごろ)、源義朝と藤原信頼(のぶより)率いるおよそ500騎の軍勢が院の御所を急襲し、後白河上皇(この時はまだ出家していないので元天皇を表す上皇)の身柄を抑えた。
(『平治物語絵巻』三条殿夜討:ボストン美術館蔵)
平清盛は嫡子重盛(1179年病没)と共に熊野参詣に出かけていて、京を留守にしていた。こうしたどさくさの中で義朝たちは、臨時の除目(じもく:官職を任命する儀式)を行い、その時に「右馬允(うまのじょう)」に任命されたのが足立遠元だ。
右馬允とは、諸国にあった牧(まき:馬を放し飼いにして養育する場所)の管理などを行う役人。七位相当の役人で五位以上の貴族ではないが、無位無官が当然の田舎武士としては名誉ある官職だ。ちなみに、当時の位は30のランクあり、七位は下から10番目くらい。ビミョーだ。
(『牧馬図屏風(ぼくばずびょうぶ)』長谷川等伯筆 (はせがわとうはく) 6曲1双)
急ぎ戻った清盛の嫡子重盛軍と対峙し、それを蹴散らしたのが義朝長男悪源太義平だった。その重盛軍に突入した義平麾下十七騎の中に遠元の名がある。
しかし衆寡敵せず、義朝は敗北した。清盛が上皇を保護していたので、義朝は朝敵となった。若き日の上総介広常や三浦義澄も義朝に従っていた。
(『平治物語絵巻』敗走する義朝(一番上)、右下が頼朝と言われている)
遠元たちがどのように都から自領まで戻ったかはわからないが、都落ちの途中、上総介広常が義朝に「多すぎると追手に見つかってしまうので、後日の合流を期してここはお暇をいただきたい。」と別行動をとったように、多くの武士たちもバラバラになって逃げ帰ったと思われる。
(伝足立遠元館跡:埼玉県桶川市:足立氏の所領は、鴻巣市・北本市・桶川市・伊奈町・上尾市・さいたま市・戸田市・蕨市・川口市・草加市・東京都足立区にわたる広大な範囲と言われている。)
頼朝挙兵までの約20年間、遠元は平家全盛の中で逼塞を余儀なくされただろう。頼朝が安房に逃れ、再挙して武蔵国に入る時、遠元は豊島清元、葛西清重らと共に頼朝の求めに応じて出迎えている。この後、遠元は文官として頼朝に支えたようである。有名な公文所(くもんじょ:後の政所(まんどころ):政務をする役所)の役人として仕えた唯一の武士でもあった。文武の際に長けていたのだ。そして、鎌倉殿の13人の一人となる。
ちなみに、頼朝側近の安達盛長(野添義弘)は遠元の弟で、頼朝の乳母比企尼(草笛光子)の娘を娶っている。
出たー!乳母がらみ!(続く)