『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その36
第8回 いざ、鎌倉
今回は、武蔵坊弁慶(佳久創:かくそう)について。
弁慶というと、皆さんも様々な伝説を持っている人物であることはご存知だろう。そうした伝説は、『平家物語』や『源平盛衰記』さらには室町時代に書かれた軍記物『義経記(ぎけいき)』やお伽草子『弁慶物語』によるところが大きい。それらは皆、読み物で、歴史解明の史料としては残念ながら信頼に足るものとは言えない。
『鏡』にはその名前が二度ほど出てくるが、以前紹介した摂政・関白を歴任した藤原兼実(九条兼実)の日記『玉葉(ぎょくよう)』には名前すら出てこない。
(藤原兼実:九条兼実とも言う)
『鏡』も頼朝の挙兵から100年以上過ぎてから、北条氏寄りの人物によって編纂されたものだ。つまり、弁慶が生きていたであろう同時期に書かれたものは『玉葉』しかない。
兼実は京都にいたので、さまざまな情報を得る立場にあったかもしれないが、日本全国の情報をくまなく手にしていたかは疑問だが、朝廷と幕府をつなぐ役目をした人物なので、幕府関連の情報は都の中では一番持っていた人物だ。
その人物の日記に弁慶が登場しないということは、どういうことだろうか?
こうした状況から弁慶は実在しなかったということが以前から言われてきた。それは、『玉葉』に、義経が頼朝と対立して都落ちした時、比叡山の悪僧数名が義経のボディーガードとして従ったという記述があり、中には奥州まで共に落ち延びたと言う者もいた。弁慶は、これら悪相の様々なキャラクターが合体してできた架空の存在だと言うのである。
五条大橋での義経との初対決の弁慶、弁慶の泣きどころ、勧進帳の弁慶、衣川で身体中に矢を射られながら立って死んだ弁慶の立ち往生など、あまりにも現実離れした逸話が多すぎると言うのも、そうした説を生み出す背景にあるのだろう。
(五条大橋の義経・弁慶像)
(弁慶の立ち往生:2005年大河ドラマ『義経』より:松平健:このドラマは私の恩師奥富敬之先生が時代考証をしました。)
「ではお前はどう思ってるんだ」という声が聞こえてきそうな感じになってきたようですね。私の答えは「ごめんなさい。わかりません。」です。私の勉強不足だが、信用に足る史料を見たことがないので、何とも言えないのです。
お詫びというわけではありませんが、弁慶を演じている佳久創は、彼自身大学・社会人で活躍した元ラグビー選手だが、父親が台湾そして日本のプロ野球で活躍した郭源治(かくげんじ:中日ドラゴンズ)だ。とにかくめちゃくちゃ球が早く、クローザーとして活躍した投手だった。