『鎌倉殿の十三人』〜後追いコラム その35 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その35

第8回 いざ、鎌倉

 

 今回は、梶原景時(中村獅童)について。

 

 梶原景時は頼朝の側近、また2代将軍頼家の側近として活躍した御家人だ。これからも様々な場面でキーマンとして出てくる・・・はず。

 

 石橋山で敗走し、わずかな手勢と共に『しとどの窟』(神奈川県足柄下郡真鶴町)に隠れた頼朝。所在を知りながら、見逃した景時。頼朝はこの恩を忘れずに景時を重用したと言われる。

 

(しとどの窟)

 

 第7回、上総介広常の館で北条義時と別れる場面で、馬上の景時は「佐殿の元に来ませんか」という義時の問いかけに「刀は切り手によって、名刀にもなれば、ナマクラにもなる。決めるは切り手の腕次第。」と答える。

 

 これは有名な歌舞伎『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』の一場面を彷彿とさせる場面だ。名刀を手にした景時が、手水鉢(ちょうずばち)を真っ二つに切り、「剣も剣」と名刀を褒めると、見ていた刀を献じた六部大夫が「切り手も切り手」と景時を褒める。まさに先ほどのセリフと重なる場面だ。自分(景時)をどう使うかは頼朝次第と。

 

(歌舞伎『梶原平三誉石切』の名場面:刀で手水鉢を切ろうとしている:でも既に割れている(笑))

 

 第8回では頼朝の元に向かう政子らの求めに応じて、景時の元に着物を借りに来た義時に、「それがし、大庭殿とは袂を分かったところ。粗暴な男は苦手でな。」という。

 

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 これぞまさしく三谷流壮大な前振りと見た。

 

 思い浮かぶのは、1183(寿永二)年12月22日の上総介広常(佐藤浩市)の暗殺だ。当日、二人は広常邸(現在の鎌倉霊園近く)で双六に興じていた。すると突然、景時は双六盤を越えて、広常の首を掻き切った。これは以前紹介した藤原兼実の弟で天台座主(ざす:天台宗のリーダー)だった慈円(じえん)が書いた史論書『愚管抄(ぐかんしょう)』に出てくる。『鏡』はなぜかこの年1年間の記録が欠落している。

 

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(昔の双六:日本版バックギャモン?)

 

歴史をたたえながらいまも滾々と湧き出る鎌倉五名水のひとつ、太刀洗水。

(太刀洗水:景時が広常を斬った刀を洗ったと言われる:鎌倉五名水の一つ:鎌倉市十二所)

 

 広常暗殺は景時が広常謀反の讒言をし、頼朝が命じたという。「粗暴な男は苦手でな。」まさに今、広常は粗暴な田舎武者として描かれている。これこそが前振りと思うのだが、考えすぎかな。小さなことが気になるのが私の悪い癖(杉下右京風 笑)

 

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 その景時も、1200(正治二)年、謀反の疑いをかけられ、非業の死を遂げる。

 

(梶原一族の墓:鎌倉市梶原:御霊神社(鎌倉権五郎神社)近く)

 

 広常は死の前年、上総一の宮の玉前神社に願文を奉納している。それは、頼朝の祈願成就を願うものだった。広常に謀反の企みはなかった。頼朝は広常の死を悔いたと言う。こと既に遅し。

 

上総介広常の五輪塔~鎌倉:朝夷奈切通~

(上総介塔:広常の供養塔と言われる:横浜市金沢区:朝比奈バス停近く)

玉前神社~上総広常が鎧と願文を奉納した社~

(上総広常公顕彰之碑:上総國一之宮玉前神社)

 

次回は武蔵坊弁慶について。お楽しみに!