『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その26
第7回 敵か、あるいは
今回は平清盛(松平健)について。いきなり余談だが、松平健は、昔『草燃ゆる』という永井路子原作の大河ドラマでは北条義時役を演じていた。
平清盛、歴史が苦手な方々も名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。今話では、福原(摂津国:兵庫県神戸市)遷都を強行し、息子宗盛(小泉孝太郎)に意見される場面が出てきた。
なぜ福原なのか?清盛は瀬戸内海の航路を活用して、中国(宋)との貿易を行っていた。そのため、音戸の瀬戸(広島県呉市)の開削工事、大輪田泊(神戸港の一部)の大修築を行った。清盛は安芸・播磨の国司を歴任し、当時の外交窓口とも言える大宰府も大弐(次官)として掌握していた。その拠点が自らの所領であった福原だったのだ。
ちなみに、日宋貿易とは、894年遣唐使廃止後(は8・く9・し4(白紙)に戻す遣唐使として年号を暗記した方も多かったのでは)、日中の商人たちが行った私貿易である。この貿易で日本は大量の宋銭(銅銭)を手に入れ、この貨幣が鎌倉時代を中心に戦国時代までの日本の貨幣経済を支えたのである。
清盛は宋銭に目をつけ、貿易を拡大することによって、平氏の財政強化を目論んだのである。
ご存知の和同開珎(わどうかいちん)製造後、日本では国家プロジェクトとして貨幣が作られ、流通が図られた(十二種類あったので皇朝十二銭という)。流通という点で考えると、皇朝十二銭は失敗。都周辺以外では流通しなかった。そして、10世紀の乾元大宝(けんげんたいほう)を持って鋳造されなくなった。
その後、貨幣の代わりになったのが絹。そこに宋銭をという清盛の策が持ち込まれた。経済が混乱するのは必至、さらに経済の根幹を清盛が握ることになる。朝廷は騒然の流通を禁止しようとし、時の権力者後白河法皇(西田敏行)との関係が壊れていったという説もある。
清盛の先見性を示すエピソードでもある。(宋銭については次のその27で)
都を福原に遷すのは、清盛の本拠地を都とすることで自らの政権の基盤強化を図るのが目的。住み慣れた都を離れることに難色を示したのは、変化を好まない当時の貴族たち。当時の貴族たちは過去の先例を守っていれば死ぬまで安泰。新しいことに手を出して、万が一、失敗したらそれこそ大変。どこぞの親方日の丸の方々と似ている(笑)
後に摂政関白となり、鎌倉幕府とも密接な関係にあった藤原兼実はその日記『玉葉(ぎょくよう)』で「天狗の所業」と記している。訳のわからない天災だと。兼実自身も清盛に使いを送り、自分も一緒に行ったほうがいい??とお伺いを立て、清盛から家がないからそのうち連絡すると返事をもらっている。
今なら幟旗を立てて「遷都反対!遷都反対!」とシュプレヒコールをあげて行動することなど当時の貴族はしないのだ。
しかし、さまざまな反発があったのは事実。それが宗盛の「都遷は、いささか急ぎ過ぎたやも知れません」というセリフななったと思われる。
最終的に福原遷都は失敗に終わり、約半年後、京の都に還都した。