『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その22
第7回 敵か、あるいは
「わしは早く鎌倉に行きたいのだ!」
亀の前をみそめる直前の場面で頼朝が言った台詞。
ドラマでは挙兵直後から頼朝が鎌倉をめざすという言葉をよく発している。確かに鎌倉は源氏ゆかりの地。しかし、史料的には千葉介常胤(岡本信人)に遣わされた安達盛長(野添義弘)が、常胤参陣承諾を伝えに戻った時、常胤から鎌倉へ向かうべきという伝言を頼朝に持ってきたのだ。(『鏡』治承四年九月九日条)
いずれにしてもどうして鎌倉は、源氏ゆかりの地(『鏡』では「御嚢跡」ごのうせき:先祖以来のゆかりの地)となったのか?これが今回のテーマ。
1028年、下総・上総で平忠常の乱が起こった。この時、朝廷から追討使に任命されたのが、北条時政の5代前の平直方(なおかた)。しかし、直方はすぐには忠常を追討できなかった。そこで、直方に代わって追討使となったのが源頼朝の6代前の源頼信(よりのぶ)。頼信は、すぐにこの乱を平定した。
直方は、頼信の嫡男頼義(よりよし)に娘を嫁がせ、自らの本拠地鎌倉の地を与えた。この乱をきっかけに、坂東武士たちと源氏との主従関係が構築されていく。以前にも書いたが、頼朝と時政は5代前から繋がっていたのである。ちょっとできすぎた話ではあるが。
頼義とその子義家は、前九年後三年の役(1051~1062:1083~1087)を通じてさらに坂東武士たちとのつながりを強化していく。頼朝の父義朝も、こうした地盤をさらに強固なものとせんと婚姻関係や力づくの合戦を行なった。
鎌倉は、三方が山、一方が海で天然の要害の地だとよく言われるが、頼朝が鎌倉にこだわる理由は、源氏一族にとって鎌倉は特別な場所だったからである。
安房から上総、下総、武蔵を通るごとに軍勢を増やし続けた頼朝は、10月6日に相模国(神奈川県)に入る。軍勢は数万に膨れ上がっていた。当初、父義朝の館があった寿福寺に館を構える予定だったが、手狭ということで最終的には大倉の地に館が建てられ、10月15日に頼朝は新居に入った。
(寿福寺)
この時、館造営の奉行(責任者)となったのが、大庭景義(大庭景親(國村隼)の兄)だ。
源氏と平氏に兄弟別れた大庭一族については、そのうちに書きます。