『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その11
義朝の髑髏を首に下げて平家打倒を叫ぶ文覚(市川猿之助)。髑髏を投げ付けて「まだ持っている」と捨て台詞を吐く場面は三谷幸喜ならではの脚本。頼朝も「もう来るな!」と怒鳴りつけるが、後に文覚は頼朝に用いられ、木曾義仲(青木崇高:優香の旦那)の元に使いとして派遣されている。
京都の神護寺再興の支援を後白河法皇に強要して逆鱗に触れ、伊豆に流された。俗名は遠藤盛遠鎌倉大御堂橋近くに屋敷があったという。
鎌倉に勝長寿院という、父義朝を弔うために頼朝が建立した寺があったが、文覚はその時に都から義朝の首を持ってきたという逸話もある。これは本物だったのだろうか。
真偽不明の後白河法皇の密勅を時政に渡した三浦義澄(佐藤B作)。三浦半島を支配する三浦一族の族長。次男だが、長子義宗が討死したことによって家長となった。
三浦氏は源頼義時代から源氏に臣従した一族で、頼朝挙兵時、長老格の父義明が河越重頼らの軍勢に攻められて、居城衣笠城で落命した。
その時、義明は、「自分は源氏何代にも仕えた家人。今、その貴種再興の時にあたり、年老いた命を頼朝様に捧げ、子孫の勲功としたい」(『吾妻鏡』治承4年8月26日条)義澄たちは大きな犠牲を払って生き延びた。
義澄もまた、平治の乱で敗れ、都から落ち延びてきた。伊東祐親の娘を妻としたことから、平家全盛の世での世渡り上手と言える。頼朝挙兵と共に頼朝に与し、重鎮として活躍する。
頼朝は厄介者だ。殺してしまえ!と義時に言い放った三浦義村。義澄を継いで鎌倉幕府の最有力豪族三浦氏の族長となる。
義村と義時。今は何でも言い合える友だが、徐々に互いの腹を探り合い、対立を深めていく。
私は、義村が三代将軍実朝暗殺の黒幕と思っているが、公暁(くぎょう)が義時を討ち漏らしたため、その首を取り、即座に義時に恭順の姿勢を示すなど、一筋縄ではいかない人物だ。
義時も色々と察したところがあったはずだが、戦を仕掛けるようなことはしなかった。
今の二人からは想像もできないような姿だが、二人とも一筋縄ではいかない大人になっていく。