『鎌倉殿の13人』〜後追いコラム その10 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その10

第三話 挙兵は慎重に

 この回は頼朝挙兵に至る重要な回だが、私の認識と違う点があったので触れてみたい。

 治承3(1179)年、都でクーデターが起こった。平清盛(松平健)が後白河法皇(西田敏行)を幽閉し、反平家勢力を一掃したのだ。これによって、清盛率いる平氏政権は、政治的に矢面に立つことになった。

 

 

 そんな時、以仁王(もちひとおう:木村昴)は令旨(命令書)を諸国の源氏に発し、平家打倒を呼びかけ、自らも挙兵した。長澤まさみのナレーションにもあったが、計画が平家に露見して、準備不足の挙兵だった。

 

 

 挙兵は失敗し、源頼政(品川徹)は宇治平等院で自害(平等院には辞世の句が書かれた碑がある)、以仁王は奈良に逃げる途中、流れ矢に当たった怪我が元で絶命した。ナレ死だったのは、小さな子供たちを「ジャイアンが死んじゃった」と悲しませないためか?また、りくこと宮沢りえがその失敗を「しーさま」に予言するところも笑えた。

 

 

 この令旨は、修験者に変装した源行家(杉本哲太)によって頼朝の元に届けられた。令旨の入った笈(おい:修験者が背負う箱)が開けられた時、禰豆子が出てくるのではと期待してしまった(笑)この行家は後、頼朝と敵対することになる。

 

 

 以仁王の挙兵は失敗したが、やがて諸国の源氏が平家打倒の兵を挙げる。劇中では、三善康信から令旨を受け取った源氏が掃討されるという誤報と後白河法皇からの本物かどうかわからない密勅によって頼朝が起つ決意をしたと描かれていたが、頼朝は以仁王の令旨を錦の御旗としてとことん利用した。

 

 

 都では治承5(1181)年七月に改元があり、養和となったが、頼朝は治承を使い続けた。頼朝は次の寿永も使わず、治承を使い続けたのである。

 

 

 なぜか?

 

 

 それは自らの挙兵の正当性はこの令旨にあるからで、以仁王に死んでもらっては困るからである。

 

 

 同様に、のちに源義仲に追い出される形で都落ちした平家一門が、元暦と改元された後もそれまでの寿永を年号として使い続けた例がある。平家亡き後の朝廷を認めたくなかったのである。