東京外国語大学の岡田昭人教授は、
「教育の機会均等」について研究されている。

朝日新聞の記事から、
岡田教授は研究の中から「戦後日本では、国レベルの教育改革議論において、階層間格差がほとんど取り上げられなかった」ということが分かってきたそうだ。

戦前の不平等な学校制度が廃止され、戦後は平等主義に基づく6・3・3・4制が採用。
「教育基本法には、すべての国民は人種、性別、経済的地位に関わらず、等しく、その能力に応ずる教育を受ける機会が保障されると明記された。」

当時はそう信じて、そういう具合だと、ただ普通に教育を受けてきたけれど、
やれ競争だ戦争だとかメデイアは煽り、私は、少年は少年なりにそのシステムそのものの不自由さを感じていたものである。

「近年の教育改革は学校教育に市場原理を導入。親と子の"選択の自由"を拡大することによって競争をかき立てる方向に進んでいる。家庭は経済力と情報力を精いっぱい駆使し、少しでもレベルの高い教育を獲得しようとする。その結果が期待に反するものとなっても自己責任とみなされがちだ。」

ある調査によると、公立小・中学に通う子供を持つ保護者の6割が教育格差を「当然だ」「やむをえない」と考えているらしい。
また、土曜授業を行う学校週6日制も、経済的にゆとりのない家庭の方が賛成する割合が高くなっている。

「背景にうかがえるのは、格差社会が子供の教育にまで暗い影を落としている現実だ。日本の教育界では、能力の違いによって子供たちを差異的に扱うこと自体を"差別"とみなす風潮があり、その中で家庭環境と教育格差を関連付けて考えることも問題視する捉え方が形成されたためだ。これは他の先進諸国では見られない特徴である。」

小学校の運動会でも順位をつけないとか、「みんなが1等賞!」とか、そういった意識の刷りこみをされた子供が、成人して社会に出た時に、その放り出された大海原でどのように対応できているのであろうか...また政府はそういった未来を予測する新しい教育上の法律や条例や保障を、具体的に連想しているのだろうか?なんて考えてしまう。
今の状況に対応するだけ、教育の自転車操業。
教育とは本来、そんなものではない。強い体力と精神力を子供の時に養うというか、自立心だったり、集団の中で生きるということ、そこで競い凌ぎ合うということ。
高度経済成長期に生れ育った私達世代は良いのか悪いのか、ボタンの掛け違いは頻繁にあっても、競争や戦争というキーワードの中でそういったことは実感しながら少なからず日常を過ごすことはできてきたようにも思える。

「このままでは、子供の学校機会や将来の職業選択の際に"勝ち組"家庭がますます有利になる。私達は今こそ教育の機会均等の意義を真剣に見直すべきではないか。」

「すべての人々に公平な教育機会が保障されてこそ、公正で健全な競争が生み出され、協調性のある安定した社会の実現が期待される。そのためにも、副教材費や給食費などの家庭負担の軽減、給付型奨学金制度の拡充、生涯を通じたセカンドチャンスの保障など、思い切った制度改革を早急に進めるべきだ。」

成人して、社会に出て、いわゆるサラリーマンも経験して、社会のしくみもなんとなくキャリアの中で理解することができるようになってきた。
成人してから学ぶことも多い...ただ、教育の中にそういったシステムが子供たちに受け止めやすいカリキュラムの中で行われているなら、私達成人の深層に形成されるものが若干違ってくるように思える。
さらに、教育を受けている時に、平等な立場で、何のしがらみも意識することなく、伸び伸びと学習を受けることができるのなら、そうなれば未来へ射す光は明らかに違うはずだ。

今日は祝日。早朝から子供たちの声が窓の外や上の階から聴こえ響きイライラしながらも考えた。
教育というものは、あくまで平等・均等なものであり、その中で知恵をつけ才能や精神力を純粋に養い、競い合って、強い持久力のある大人への過程を育むのである。
自分自身の少年時代も振り返り、教育の疑問にも色々様々考えていってもいいかな~なんて思ってしまった。ただし、優しく柔らかく...