人間の最も美しい姿のひとつ

それは、真剣に仕事に打ち込んでいるときだと思っています。 

 

ビクトル・ユゴーは

「労働は生命なり、思想なり、光明なり」といっています。

 

仕事をすること、労働することが、 人間の本性にかかわる大事であるとの意味かな、と。

 

さて、常識的に考えてみても、人類が今日まで、営々と築き上げてきた文化というものの原動力となったのは、「労働の力」にほかなりません。

 

人間が生きつづけるために、

また、さらに文化を発展向上させていくためにも

人間から「労働」という価値をなくすことはできないと思います。

 

現在、物資が豊かになり、生活にゆとりが出てきたとはいえ、

その豊かさをささえているものは「労働」にほかならないし、 労働を嫌い、レジャーや趣味だけに生きがいを求めようとしても、本質的にはそうできないのが人間の「本性」ではないでしょうか。

 

そうした意味では、誰しも労働のなかに、生きがいを求めているのだといえます。

 

しかし、多くの人が、労働の意欲を失い、仕事に生きがいをなくしつつあることも事実です。

 

だが、それは、労働、勤勉の価値を見失っているという個人の側の問題より、むしろ、そうした価値を喪失させている、社会機構の労働システムそのものに問題があるといえるのではないでしょうか。 

 

管理化社会、オートメーションの機械化工場のなかで、人間の労働が画一化され、 個人の創造的な豊かさを生みだす余地がきわめて縮小され、ひいては労働者を部品化におとしいれていることが問題です。

 

それが、人間から労働の喜び、働きがいを喪失させている最大の要因であるのではないか。

 

そこからレジャーとか、マイホームといった仕事以外の生活の場面に、生きがいを求める傾向が生まれてきているのだといえます。

 

したがって、労働そのもののなかに個人の創造性を生みだし、高め、生かしていくような「人間的な労働システム」が追究され実現化されねばならないと思います。

 

次に、労働と余暇という問題について、

一言触れておきたいと思います。

 

人間が、生きることの意義、 人生における労働の意味や位置づけを忘れ、

ただ″モーレツ″に労働することだけが、人間の生きがいであるという姿も、また真に人間的なものとはいえないでしょう。

 

むろん、人生の一時期には、

なにもかも忘れて仕事いちずに打ち込むというときもあるでしょうし、

また必要でもありましょう。

 

しかし、概していえば、

そうしたなかにも、人間らしい「ゆとり」と「憩い」が不可欠です。

 

そこに遊びも、趣味も、休息も、 生きがいに欠かせない要素として取り入れていく意味があるといえます。

 

極端に、労働に走りすぎたり、 またレジャー等に行き過ぎたりするのは、

人間精神のアンバランスのあらわれといえましょう。

 

ことに昔から「労働」とか「勤勉」は、日本民族の一つのよき特性としてあげられているわけですが、近代産業の巨大なメカニズムのなかにとりこまれ、非人間的なかたちで推し進められてきたところに、いわゆる「エコノミック・アニマル」と、呼ばれなければならないような状態を生みだし、公害などの社会矛盾を噴出させたことも否定できません。

 

要は、国家的な規模であれ、

一個の人間次元であれ、

全体的な調和と統一を目指す潤いある人間性に生きることが、

正しいのではないかと思っています。