7月4日で一年を迎えました。

この一年、娘に、私たちに、さまざまな形で心を寄せてくださった皆様ありがとうございます。

 

 

一年の区切りに来てくれた両家の兄弟たちが帰り、しばらく滞在していた私の母が帰り、花に囲まれて華やかだった部屋も落ち着き、いつもの毎日が戻ってきました。

 

 

 

 

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たくさんありすぎて、全部一緒に写せなかったー

 

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ドライに向かない花もあるかもしれないけれど、とりあえずやってみる

 

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カーネーションは本当に長持ちですねー

 

 

 

一年が経って、私たちが元気に過ごしていることをお伝えしたくてこれを書いています。すっごく長ーーーいです。いつもは文章の内容と流れを意識して書きますが、今回はあまりにも長過ぎて散漫としているかもしれません。

 

自分の考えを文章にし、何度も読み、自分の中にさらに落とし込んでいくための、自分への宣言でもあります。

 

 

 

 

一年前の今頃は、どうやったら時間が過ぎていくのだろうと思っていました。

でも、ちょうど、今の考え方に行き着く始まりの時期だったと記憶しています。

 

気がつけば一年過ぎました。

早かったのか、遅かったのか、どっちなのかよくわかりません。

 

 

私も夫も元気です。

友人、知人、家族などたくさんの人たちに支えられています。

 

よく食べ、よく喋り、笑うときは心から笑い、時折寂しくなったらその気持ちを大事にして涙も流します。その気持ちがなくなることはないし、順調に減っていくものでもない。その日、そのときによって変化する思いを自然に受け止めていくだけです。

今感じることを大切に、今目の前にある、今できることをやっていく。

 

そうやって時間は過ぎていくのかなと思っています。

 

 

 

何があっても生きて行くんですね。

 

誤解を恐れずに言えば、娘は私の人生の全てではない。
いや、全てだと思っていたし、全てだけれど、やはり全てではないとでも言うべきかな。

 

私は私の人生を生きていかなくてはいけないのだと、あらためて考えるようになりました。

 

 

ここに書くことはこれまでもこれからもいかなる宗教や思想や個人に傾倒するものではありません。正しいとか間違っているなどと判断されるものでもありません。さまざまな別れがあるなかで、他の方達にこの解釈を押しつけるものでもありません。何が正しいのか、私にはわかりません。科学的でないとか証明されていないというのも関係ありません。ただ、今の私が信じる個人的な解釈であり、私が今在るために、娘との今生の別れから学び見出した自分なりの意味づけであることをどうぞご理解ください。

 

 

魂が本質で、この世に生まれて肉体を持つ。
自分で自分の人生の予定を立ててくる。

自分が今生で成し遂げたいことを、神様が決めるのではなく、自分で決めて生まれてくる。

導きと自由意志とで人生はできている。

 

 

昨年書いたように、娘は両親を選んで生まれてきた記憶を持っていました。

空の上にまぶしく光る存在がいて、その人に「あのパパとママのところへ行きたい」と話して生まれてきたと。

そして、大きくなっても、ときどきそのまぶしく光る存在と会う夢を見ると話していました。

 

付け足しますと、おなかの中は明るくて、歩いたり走ったりする練習をしていて、スープのごはんを食べていたそうです。

 

 

私はこの年になって初めて命と真剣に向き合うことになりました。
それまでは小さな頃からずっと、死ぬことが怖かったんです。

 

だから「死」という言葉を冗談でも使ってはいけないと、娘が小さな頃から言ってきました。それは、何も無くなってしまうのではないかと思っていたから。

死んだら終わりだと漠然と思っていたから。

 

先のことを考えるのが怖かった。

楽しく、なんとなく今を笑って生きて、自分は、自分に関する人たちは死なないと思っていました。

 

けれど、死んで終わりではありませんでした。

肉体が役目を終えても魂(=意識)は生き続ける。

この世の肉体の死は、魂が本来の世界に帰って行く(=新たに生まれる)ことである。

死は怖れることではない。

その学びを娘のおかげで得ることができました。

 

同時に、寿命とは「命の寿」と書くように、役目を終えて本来の世界にめでたく帰還することなのだと海からも言葉をもらいました。

 

 


彼女は自分で決めてきた自分の人生を、寿命を全うしたんだなとつくづく思います。

 

そうでなければ、旅立った直後に「自分は大丈夫だから」と、通夜の日には「明日は笑って見送ってほしい」と伝えてくるでしょうか。

 

この世の終いかたが本当に美しく立派すぎて、どこに行っても、どんなときでも、自慢の娘だと自信を持っています。そして、そんな立派な娘に親として選んでもらったことに喜びを感じています。

 

 

 

 

これまで何度か書いてきたように、どんなことがあっても人は幸せに生きていけます。


なぜなら、人は今そこに在るだけですでに幸せな存在だから。
それに気がつけば今すぐ幸せでいられます。

 

持っていないものを数えたり欲しがったりするのではなく、今持っているものに目を向けるんです。

目の前から娘がいなくなりました。

けれど、彼女がそばにいてくれることを私は感じることができる。

そして、周囲にはたくさんの愛情をくれる人たちがいる
寄り添ってくれる人たちがいる


それだけでもう十分すぎるくらいに幸せです。

 

 

 

 

娘は見守ってくれています。

一緒に生きていると思っています。
 

けれど、彼女に頼るわけではなく、私は私の人生を自分で選んで生きていきます。

 

「彼女のため」でなく

「彼女のぶんまで」でもなく

彼女から教わったことを自分の人生に生かすことで、彼女の使命がさらに意味を持ち、その命が輝きを増すのだと思います。

 

 

 

一年前、娘とのお別れに来てくれた同級生たちに言いました。

 

今自分が在ることは有難いこと

今日と同じ明日は来ないかもしれない
どんな小さなことでも、やりたいことは今すぐやってください
勉強するよりやりたいことがあるならそれを優先してください

やりたいことがわからないなら目の前にあることを一生懸命やってください
後回しにしないで、すぐやってください

彼女にはやりたいことがたくさんあった、私は知っていたはずなのにそうさせてやれなかった、それを後悔している私が言うんだから、お願いだから聞いてください、と。

 

そのときの後悔に関しては、今はしてません。

しても仕方のない、やり直せないことだから。

 

やりたいことをやってほしい、その気持ちは変わりません。

なんでも後回しぐせのある自分にも言い聞かせ続けています。





パソコンを操作しているときなど、思いがけず写真が出てきて、この子は本当に存在していたのかしら? 間違いなくいたはずなのに、なぜ今はいないんだろう?と不思議な気持ちになることがあります。

 

母に、かぐや姫だと思ったらいいんだよと言われました。

 

かぐや姫ではないけれど

私たちと出会うために生まれてきて
私たちに何かを教えてくれるために生まれてきて
突然、役目を終えて帰っていった

 

それは間違いではありません。

 

 

 

彼女が教えてくれたことのひとつ

自分の、今生の使命を全うすること。

 

自分の使命ってなんだろう。

 

 

 

この一年の間、自分の在り方についてずっと考えてきました。まだ明確な答えは出ないけれど、今できることを小さなことでもやっていくしかありません。

 

くらすこと、生きること、楽しむこと、幸せに生きること、命と死、そういうことに向き合って行くのかもしれません。

娘から教わったことが私の糧になっていることは間違いなく、私がそれを生かして行くことで彼女の命が輝きます。

 

今月から、個人事業主にとって目印になる屋号を変えることにしました。

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uchella  ウチェラと読みます。

なぜ変更したかというと、この文字は娘が書いたものなんです。

彼女から得たものを糧にして、一緒にやっていくという気持ちをこめて変更しました。


まだまだ作業中ですが、HPやアメブロのデザインが既に、コッソリと少しずつ変わっています。


娘が書いて写真に残してあったものを、どらちゃんこと平吹幸さんが使えるようにしてくれて、その他もたくさん力になってくれています。ありがとうございます。

 

この件についてはあらためて書きますね。

 

 

 

 

 

思い出したくない記憶を引っ張り出したり、反芻したり。

いくらでも悲しくなることを考えられるし、ここに書くこともできます。

いつでもいくらでも悲しくなれます。

 

でも、どんな感情を感じるかは自分で選ぶことができるんです。

事実に対して、どう考えるのかどう行動するのかによって、感情は変化させることができるんです。

 

私は楽しかった思い出や感謝を大切にしたいし穏やかでありたいから、その気持ちに沿った考え方を選び、行動を選び、書いています。

 

 

「娘が今、目の前にいない」

という変えられない事実があります。

 

娘と私が逆の立場であれば、私がいなくなったことでいつまでも悲しんでいてほしくないと思うから

 

魂の世界でも成長するためには、こちらでいつまでも悲しんでいてはその成長の妨げになるというから

 

今生の役目は私は母親だから、母親は娘の足を引っ張ってはいけないし見守りたいと思うから

 

いつか彼女に会った時に「ママがんばったよ」と自信を持って言いたいから

(そう言いたいと思う時点で立場がもう逆転してますけどね)

 

だから、私は悲しんでいるよりも、元気に笑って、楽しんでいたい。

毎日小さなことにも幸せを感じてくらしています。

 

 

 

 

 

 

強いと言われることもあります。

 

そうなのかな?

もしそうだとしたら、そうなる以外に選択肢があるでしょうか。

 

悲しいけれど泣いてばかりで過ごしたくはないし、後悔なんてしようと思えばいくらでもできるけど、もう悔やんでもどうしようもないんです。

 

どんな願いでも叶うというのなら、彼女を生き返らせてくださいと言います。

でも、願っても叶わないから

 

彼女は光になって

エネルギー体になって

波となって

私のそばにいると信じて行動する以外に、することはありません。

 

 

 

 

7月4日には学校に呼んでもらい、彼女のための祈りの会に参加してきました。

 

彼女のために、私たち両親のために、毎月祈ってくださっています。

どれほど感謝をしても足りなくて、私たちは本当に恵まれています。

 

恩師である、70代になる女性がいらっしゃいます。

お会いするたびに話が弾み、それを「女子トーク」「ガールズトーク」と表現されるとってもお茶目であたたかな、娘も私も大好きな先生です。この先生がいらしたから入学したと言える方。

 

お話するたびに、両親や親族以外にここまで彼女を可愛がってくださった方がいらしたということが、出会えたことが、この方に見送っていただけたことが、どれほど幸せなことかと感じます。

 

娘に大きな可能性を感じて、将来に壮大な夢を持ってくださっていました。

けれど、今となってみればそれはなんと表面的なことだったか、彼女の持って生まれた使命はもっと根源的な、人としての本質であったとおっしゃいます。

 

お互いに「ただ、今を感じて生きましょう」と話し合っています。

 

 

 

 

 

あたりまえの毎日は

当たり前ではなく

有難いこと

 

感謝と愛情を持って

今を幸せに生きていく。

 

 

皆さまの毎日が感謝と愛情に満ちあふれますように。

 

大切な方に今すぐ

ありがとうと伝えてください。

大好きと伝えてください。

 

 

出会いに恵まれていることに心から感謝しています。

いつも、本当にありがとうございます。

 

 

 

岩崎 梢

 

 

 

 

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