はじめまして。
ねしこです。
ちょっと小説が読みたい時。
なんだか元気がない時。
明日からがんばりだい時。
あなたに読んでもらえたら。
ラブストーリー
「あ、雨だ」
ワタルは、目尻に落ちて頬を伝う雫を中指の腹で拭う。
「雨に一番はじめに気付く人は、ぼーっとしてる証拠ななのよ」
ワタルの日焼けした腕に、ユリの細い腕が絡む。ワタルの目尻に落ちた雨は、ユリの白い肩にも落ちる。
「強くなりそう」
残念がるでも喜んでいるようでもなくユリが呟く。
「走ろうか?」
ワタルがユリの手を取る。
「ううん、走らない」
「濡れちゃうよ」
「いいの」
ユリはそう言い切って、ワタルの手を強く握り返す。
落ちてくる雨の粒は徐々に数を増やし、ねすみ色のアスファルトに黒いシミを残してゆく。
ワタルは右肩に掛けたバッグを背負い直す。
「カメラ、大丈夫?」
「うん」
「そっか」
ユリのダークブラウンの長い髪をすべり台のようにして雫が伝う。
「公園、通って行こうか」
ワタルの発案で、二人は駅前の大きな公園に入る。午後のにわか雨はたくさんの人の足を急かせ、広い遊歩道は二人だけのものになる。
「樹の下通ろうよ」
ユリが長い髪を翻し、木の根のはった土の上を歩き始める。
「靴、汚れるぞ」
既に泥のついた白いロウヒールのパンプス。
「白に飽きてたから丁度いい」
ワタルは目を細め、大股でユリの隣に並ぶ。
勢いを増す雨は、突然、何の前触れもなく葉の間から落ちて二人をくすぐり笑わせる。
「あ、背中に入った」
ユリは左腕の脇の後ろから侵入した雨に肩をすくめる。一滴の雫はユリの背中のうぶ毛の上をゆっくりと降りて散ってゆく。
「うらやましいな」
ワタルは、枝のすき間から微かに見えるくすんだブルーの空に向って舌打ちをする。
「こんなにゆっくり歩いてて大丈夫なの」
「うん。次の電車でも間に合うから。ギリギリだけど」
ワタルが歯を見せて笑う。そのえくぼにつられてユリも微笑む。
「荷物、先に送っておいてよかったね」
「でっかーいトランク持ってたって、走るよ」
「すごく迷惑。他の人がね」
「うまく避けるから大丈夫。他の人がね」
ユリは上がった口角をふと戻し、泥のついたパンプスに目を落とす。
「十二時間後はずいぶん遠くにいるんだね」
「そうだね」
「十二時間、なにする?」
ワタルが右手で自分の首筋を撫でつける。
「んー、コーヒーを飲んで本を読む」
「あとは?」
「少しだけ寝て、コーヒーを飲む」
「それだけ?」
「ユリのことを考えて少し泣く」
「少しだけ?」
「少しだけ」
「隣の人に見られるよ」
「隣の人が寝てるときにこっそり泣く」
「スチュワーデスさんは」
「見て見ないふりしてもらう」
二人は視線を合わせないまま微笑む。
「ユリは?今から十二時間なにする?」
「スーパーで夕食の買い物をする」
「うん」
「買ってきた材料で夕食を作る」
「何作るの?」
「んー、すごく辛い麻婆豆腐。汗かきながら食べるの」
「うまそうだな」
「ビールつき」
「よだれ出てきた」
「それで、少し酔って、ベッドに入って、ワタルを想って泣くわ」
リズミカルな雨の音が大きくなる。
紫陽花を這うカタツムリのように二人はゆっくりとゆっくりと歩く。
触れ合っている肩と腕が少しずつ熱を持ち、お互いの体温を伝えあう。
「覚えてる?」
激しく叩かれるドラムの中でふいに鳴らされたトライアングルのような声でユリが囁く。
「なに?」
「二回目のデートでここに来たこと」
「もちろん」
「まだワタルのこと何も知らなくて、一緒にいるだけでドキドキした」
「今はもうしないの?」
ワタルはユリの伏せた長い睫に視線を落とす。
「しない」
「なんだ」
「ふわふわしてる」
「おれは、クラクラしてる」
二人の口元が同時にほころぶ。
「五月だった」
「そうだっけ」
「うん」
「夏じゃなかった?」
「夏みたいに暑かったの。ワタルは黒いポロシャツで、私は白いカーディガンを着てきたことを後悔したの」
「よく覚えてるな」
ワタルの額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
「私、その時に、この腕にかぶりつきたいって思ったんだもん」
「そんな怖いこと考えてたのか」
「そうよ」とユリは強気な瞳でワタルを見上げた。
ラブストーリー(続き)
こんなに暑くなるなら、もっと涼しい格好にすればよかった。ショウウィンドウで自分の姿を何度も何度も確認する。カーディガンの袖をまくってはおろし、脱いでは袖を通す。さっきからそんなことを繰り返している。
土曜の午後の駅前は誰かを待つ人達であふれている。
人ごみの中に彼の姿を見つける。嬉しさと緊張で頬の筋肉がゆるんでしまうのを必死でこらえて、私はまだ気付かない振りをする。
「待たせてごめんね、暑かったでしょ」
彼の額に浮かんだ汗は耳の後ろを伝い襟足を少し濡らしている。それだけで、私の心は震えてしまう。袖口から伸びている長い腕には適度な日焼けと適度な筋肉。
「私もさっききたばかりだから」
私は小さなウソをつく。本当は一時間も前に着いてしまった待ち合わせ場所。喫茶店に入ることもできず、ガラスの中の自分とにらみ合っていた一時間。
「おなかすいてる?」
「まあまあ」
「どうしようか?」
「どこ行こうか?」
きっとこれから何十回、何百回と繰り返される会話。そうあってほしいと願いを込めながら、弾んだ声の最初の一回目。
「とりあえず歩いて、それで、喉がかわいたらどこかに入ろうか」
私が笑顔で頷くと、彼は嬉しそうな顔を見せる。
手の甲がたまに触れてしまうような微妙な距離で私たちは歩く。
「公園、通ろうか」
幅の広い遊歩道には休日を楽しむ人々。
「カワハラは、いつも休みの日、何してるの?」
「本読んだり、映画みたり、散歩したり、してるかな。アライは?」
「おれは、ドライブして、写真とって、映画もみる」
「一人で?」
「一人で」
女って図々しいイキモノだ。彼の休日の光景の中に自分の姿を探してしまう。
「どんな映画みるの?」
「ホラー映画以外なら何でもみるよ。ラブストーリー、サスペンス、ヒューマンドラマ」
「おれもホラー映画きらい。ラブストーリーがすき」
左側の彼の顔ははにかんだように微笑む。私は込み上げてくる衝動を悟られないように、右半分を強張らせる。
「なにがすき?」
「映画?」
「なんでも」
「カメラがすき。車もすき。山より海がすき。カワハラは?」
「初夏がすき。ベランダがすき。甘い物がすき。コーヒーがすき」
私たちはすきなものを言い合う。汗をかきながら飲むビールや、晴れた日の洗車。旅行の計画と水族館。それは、全部これから彼としたいこと。でも、一番すきなものが言えずにいる。
「暑いね」
「うん」
「暑がり?」
「汗っかき」
苦笑いを浮かべながら、右の掌で額を乱暴に拭う彼。
いつの間にか公園は端まで来ている。
「どうしようか」
彼は薄く生えたあごの無精ひげに手をやりながら考える。
「なにかしたいこと、ある?」
彼が少し困ったように私を見る。
「手を繋いで、もう一度公園を歩きたい」
その言葉にえくぼを作った彼は、控えめに私の右手を取った。
ピークを迎えた雨音は少しずつ落ち着きを取り戻してゆく。公園の出口はまだ見えない。
ふいに、ワタルが口を開く。
「離れてることを楽しもうか」
「たとえば?」
「行ってきますとただいまは海に向って言う」
ワタルがいいことを思いついたという顔でユリを見る。
「私は、行ってらっしゃいとお帰りなさいを海に言うのね」
「そうそう」
「あとは?」
「嬉しいことがあったらユリに話しかける」
「それじゃあ、私が死んじゃってるみたいじゃない」
「じゃあ、その日帰ってユリにメールする。普段あんまりしないから新鮮だろ」
「そうね」
ユリは左耳にした控えめなピアスを指でもてあそぶ。
「じゃあ、私は毎日ブロッコリーを食卓に並べる」
「確かに、おれと一緒じゃできないことだ」
「ブロッコリーをいやってほど食べるわ」
ユリが鼻の頭にシワをよせる。
「じゃあ、おれは毎日納豆を食べる」
「納豆なんて向こうにはないよ」
「じゃあ、舞茸の天ぷら」
「もっとないよ」
「じゃあ、ピクルス」
「ピクルスはワタルも嫌いでしょ」
「うん。じゃあ、なにがいいかな?」
「鳥の皮と、サケの皮と、お肉の脂身」
「胃がもたれそうなものばっかりだ」
ワタルは胃の辺りに手をやる。
「淋しくなったらどうすればいい?」
「どうすればいいかな」
「私は、きっと、ワタルに会いたいって素直に泣く」
「おれは、きっと、ユリとのえっちな妄想をする」
「どんな?」
「それはひみつ」
髪の毛を耳にかけながら、ユリが柔らかく睨む。
「にわか雨の時は、傘をささないで公園を歩くわ」
「うん」
「樹の下をゆっくり歩く」
「白い靴で」
ワタルは所々が茶色くなったユリの靴を見る。
「大丈夫よね。身体の距離と心の距離は違うもの」
「うん」
「近づいた心は、ちょっとやそっとじゃ離れないよね」
「おれの心はいつまでも同じ場所にあってそこから離れないよ」
「同じ場所って?」
公園の出口が見える。
「ユリのとなり」
少し手前で立ち止まり、二人はそっとキスをする。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「おかしいな」
「なにが?」
「泣かせ所だと思ったのに」
「泣き所だったんでしょ」
ユリが潤んだ瞳のワタルを見上げて微笑む。
公園の終わり。
陰湿な空の色は正しい青に変わる。
ヒステリックな雨は、ストレスを発散し終え、再び太陽の陰に隠れる。
「どうしようか」
ワタルはひげのないあごに手をやりながら考える。
「なにかしたいこと、ある?」
ワタルは好奇心に満ちた顔でユリを見る。
「手を繋いで、これからもずっと歩きたい」
その言葉にえくぼを作ったワタルは、しっかりとユリの右手を取った。
ベーコンエッグ
「例えばさ、おれがとんかつなら、おまえはソースなんだよ」
また何かくだらないこと言ってると思ったら、アキオの目はいつになくマジだ。
「何言ってんの?」
「たとえてんの。おれとおまえのこと」
「また酔ってんの?」
私は訝しげにアキオを見上げる。
「酔ってねえよ。おれ今日飲んでないもん」
「ふーん。じゃあアキオが味噌カツだったら私は味噌なわけ?」
ピンクのマニキュアを慎重に右足の親指に近づける。アキオは首の後ろに手をあて、何か考えている素振り。
「いや、味噌はねえな。やっぱとんかつはソースだろ。だからおまえはソース」
「ふーん」
アキオはラークを一本取り出し口にくわえる。
「ちょっと、ここで吸わないでよ」
「違うよ!くわえてるだけだって」
「ふーん」
私が睨むと、アキオはばつが悪そうに手に取ったライターを置き、煙草を箱に戻す。頭をかきながら、カレーとかラーメンとか焼肉とか呟いている。
「お腹すいてるの?」
薬指の爪が小さくて、はみ出してしまったマニキュアをティッシュで拭う。
「腹なんて減ってねえよ。さっき食ったばっかじゃん。おれは考えてんの!」
無意識にラークに伸びる右手を、不自然な動きで誤魔化している。欲しいもの目の前に必死で我慢するアキオの姿はかわいい。
「てゆうかさ、禁煙するなら煙草捨てればいいじゃん」
「目の前にあるものを我慢することに意味があんだよ。精神の鍛錬てやつだな」
程よく日焼けした顔は嬉しそうに笑う。
「ふーん。そんな無理に禁煙することないのに」
塗り終わった足をバタつかせてマニキュアを乾かす。
「無理じゃねえよ!絶対禁煙してやるからな!」
アキオは向き直って私のお腹に手を当てる。何でも乱暴に扱う人なのに、私に触る時だけ、そっと、本当にそっと春の風のように触れる。
「おい!今動いたぞ!」
「んなわけないじゃん。まだ三ヶ月だよ」
「ほんとだって!マジで動いたんだって!」
寝転がり、私の太腿に顔をのせてお腹の音に耳を澄ませている。リーバイスのタンクトップはアキオの身体にとても合っていて、その呼吸に合わせて背中の筋肉が動くのが分かる。私を軽々と持ち上げる腕。枕に丁度いい胸筋。形のいいキュートなお尻にはリーバイスの501が良く似合う。
「なんか聞こえる?」
「うーん、聞こえない」
「やっぱり気のせいだったんだよ」
「さっきは動いたもん」
「じゃあ、さっき動いたのは私の胃だよ」
「えー」と言って太腿に頭をのせたまま仰向けになる。隆起した喉ぼとけが目に入る。鍛えられたその首筋に、これまで一体何人の女が腕を回したんだろう。アキオは足を交差し、胸の上で腕を組んで目を閉じている。
「眠いの?」
長い睫に触れながら私は聞く。
「ううん。赤ん坊と交信中」
目を閉じたままアキオが答える。
「ねえ、おまえ知ってる?男の赤ん坊が生まれる理由」
「知らない」
「妊娠した時のセックスで女が満足すると男が生まれるんだって」
「へえ。じゃあ私はお母さんが満足しなかった時の子なんだ」
「そうだな」
目を合わせて笑う。
「だからさ、テクニシャンな男と感じやすい女が多くなると、世の中男だけになっちゃうんだよ。それは嫌だな」
アキオは甘えるように私の薄いグレーの部屋着のズボンに頬を擦りつける。
「秋本んとこってさ、女三人だよな」
よく遊びに来る飄々とした友達を思い出して二人で吹き出す。
「おまえは、男かな、女かな」
また、お腹に向き直り手を当てる。
「その理論が正しいなら、男だよ」
細く柔らかい髪を撫でると、「えへへ」と照れたように笑い私を引き寄せてキスをする。
「あ!思いついた」
顔を離してアキオが言う。
「何を?」
「おれが男なら、おまえは女」
「そんなの当たり前じゃん」
「当たり前じゃねえよ。だって、おまえの母ちゃんが感じまくって、おれの親父が下手くそだったら、おまえは男でおれは女に生まれてたんだぜ」
「すげー」を連呼しながら私を抱きしめる。「ばーか」と呟いてアキオの肩に顔をのせる。脱力した私はお姫様だっこでベッドに運ばれる。
「もっと何か言って」
「何を?」
注意深く私をベッドに下ろしながらアキオが尋ねる。
「へんなたとえ」
「じゃあ」と私の隣に横たわる。
「おれがカレーなら、おまえはジャガイモ」
「えー、ジャガイモやだ」
アキオの腕と胸の間に頭を沈める。
「だっておれカレーのジャガイモ大好きなんだもん」
私の額に唇が触れる。
「じゃあ、おれが牛丼なら、おまえは」
「卵?」
「ううん、紅しょうが。おれ紅しょうがをすげー入れて食うのが好きなんだ」
いたずらっぽく笑う。
「いいよ。もっと言って」
髪を触られる気持ちよさに私の身体はとても柔らかくなる。
「おれがベーコンなら、おまえは目玉焼き」
「おれがサンマなら、おまえは大根おろし」
アキオの好きな食べ物が耳元でたくさん聞こえる。ゆるくなった意識の結び目はするすると解け、いつの間にか規則ただしい寝息に変わる。
アキオが薄いタオル地の掛け布団をそっと掛ける。
「おれがじじいなら、おまえはばばあ。死ぬまで、うまいみそ汁食わして」
瞼に軽くキスをしてアキオは部屋の電気を消す。
そして、二人の寝息は重なる。
