境界線
私は毎日六時四十五分に起きる。
午前六時四十五分、それが私の境界線。
昨日と今日の境界線。
今日と明日の境界線。
あと三時間で今日が終わる。
あと三時間で明日になる。
目を瞑ってまぶたの裏のあたりで数時間前の出来事をリプレイする。
「公園に行かない?」
彼に無理矢理連れて来られた風の強い公園のベンチ。
私は少し苛立っている。話なら食事をしながらだってできるのに。お金のない学生じゃあるまいし。
こぼれたため息はは空しく風にかき消される。
彼が缶コーヒーを手に戻って来た。手渡された温かいコーヒーを見てふと笑みがこぼれる。
「甘い」
私が渡したコーヒーを飲むなり彼は顔をしかめた。
「え!ごめん、嫌だった?他の買って来るからちょっと待って」
再び立ち上がろうとする私を、彼は慌てて引き止める。
「これで大丈夫!」
「でも…」
「ほんとに大丈夫、ありがとう」
「ほんとに?」
「ほんとに」
引かれた腕の強さに、私は諦めて腰をおろす。
「たまには甘いコーヒー飲むのもいいね」
そう言って鼻に皺をよせて笑った。
彼が甘いものが本当に苦手だと知ったのはそれから少し後のこと。ケーキなんて絶対に食べないし、彼の部屋のシュガーポットは私専用になっている。
でも、缶コーヒーだけは、あの時私が買ってきた甘いコーヒー。ずっと。
公園に行こうって行ったのは彼の方なのに何をするわけでもなく、ベンチに座り一点を見つめている。
「何?」
「うん」
「どうしたの?」
「うん」
私の苛立った問いかけに、小さく頷くだけの彼。
「話が」
「え?」
「大事な話が、あって、さ」
ダイジナハナシ。
これまでも幾度か経験したこの空気。そんな時の大事な話は、十中八九別れ話。
まあ、それも仕方ないかなって思う。お互いもういい年だし、結婚だって考える。私みたいな仕事第一で性格のキツイ女より、彼にはもっと家庭的なかわいい人が似合ってる。
でも、私だって、いつかウェディングドレスを着たいと思ってたし、その隣にはあまり似合ってないタキシード姿の彼がいると思ってた。
目の奥から涙が滲んでくるのを悟られないように努める。
「なに?」
平静を装って尋ねる。
「うん」
口ごもる彼。
もう、早く言ってよ!思わず叫びそうになるのを、必死で堪える。
「だいたい検討がついてるから、早く言ってよ」
「え!」
心底驚いたような彼の声。
私は、もう彼の顔が見られない。絶対泣く。
彼は覚悟を決めたように軽く深呼吸をする。
「結婚しない」
照れが六割、緊張二割。手元にはシンプルなエンゲージリング。
驚きと嬉しさと安心で潤んだ目を彼に向けると、そこには私よりも泣き出しそうな顔。
私が言葉を発するのを、今度は彼が息を呑んで待っている。
答えなんて決まっているけど、心配そうなその顔をもう少し見ていたい。
出会った頃よりも少し広くなった額、存在感のある眉、奥二重の目と意外に長い下まつげ。少し疲れの見える頬はこの寒さの中でも上気している。高くはないけれど形のいい鼻と軽く結ばれた薄い唇。
この顔が好き。
「いいよ」
彼の瞳から喜びと安堵が溢れ出す。その潤んだ瞳を見て私の身体からは愛しさが溢れ出す。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
風の強い公園のベンチ。私達は向かい合っておじぎをした。
帰り道、相変わらず風が強いけど、私たちを囲むのはとても穏かな空気。
「私さ」
「ん?」
「緊張した」
「俺も」
彼が照れたように笑う。
「別れ話かと思った」
彼が呆れたように私を見る。
「ネガティブだね」
「うん」
二人で手を繋いで歩くのは久しぶり。
「私甘党だよ」
「知ってる」
「かぼちゃとかすごく甘く煮るよ」
「うん」
「玉子焼きも甘いよ」
「うん」
「いいの?」
「うん」
彼が私の左手をチラッと見る。
「俺さ」
「うん」
「タキシード似合わないよね、きっと」
「そうだね」
明日まであと二時間四十五分。全く眠れていないから、ファンデーションもきっとのらない。午後の会議ではきっと睡魔に襲われる。
お互いの両親に挨拶をしないと。私の父親の前で彼はどんな顔をするんだろう。両家揃ってのお食事会もセッティングしなければならない。彼はきっと何もしないから、私が動かなきゃ。今から式場おさえたらいつ頃になるだろう。式をするならガーデンウェディングがいい。でも、そうすると暖かくなってからの方がいいな。箱根と軽井沢も捨てがたい。
明日まであと二時間半。
仕事のことも話合わなくちゃ。考えなければならないこと、やらなければならないことが山ほどある。
「よろしくお願いします」
暗い部屋に響く声。こみ上げて来る笑みに身を任せ、私は幸せなミノムシになる。