19/02/12 04:00
ヨシオ:ここパースに来た頃、毎日のように夕方海岸に行ってインド洋に沈む夕日を見に行った事がある。それで、夕日って赤いねんけど夕日を見て目の網膜に焼き付いた太陽を目をつぶって見ると、緑色に見える。
ポニョ:そら、赤の対色は緑やからやろ。赤の信号を見てて、色が消えた後、緑が見えるのと一緒やな。

ヨシオ:そうやろな。だからそれと一緒で、この世と霊界は対になってるから、霊界の太陽は緑色をしてるって言われているんや。岡本太郎は別府のビルの壁に緑の太陽と名付けた壁画を作ってるけど、でもそこにある太陽は赤色してるんや。でもその赤い太陽をずっと見て目を閉じたら緑の太陽に見えるんや。
ルドルフシュタイナーは緑のことを、死せる太陽の色と表現したことがある。
また日月神示では…
「お日様、赤いのでないぞ、赤いと思っていたであろうがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ。お日様もひとつでないぞ、ひとりまもられているのざぞ。さむさ狂うのざぞ。」
と記述されている。
霊界に行って面白いのは、霊界の太陽から霊的光線を受ける身体の位置が背中なんや。
というのも、脊髄にある第九番目から十二番目の椎骨までの間の領域に霊的なエネルギーの溜まり場があって、そこを損傷すると、全身が麻痺してしまうんや。
だから。霊界では、太陽に向かって背中を向けて日光浴をするんや。それで、太陽と背中を向けている霊の間を通ったり邪魔したりすると、霊界ではとても失礼なことやねん。
また、脊髄と霊に話に戻るけど、クンダリーニヨガという背骨に六つある生命を維持するシャド・チャクラつまりエネルギーの溜まり場を下の方のチャクラから背骨に沿って登って行く霊的な修行があるんやけど、背骨の間をくるくる螺旋状に登って行くもんやから蛇がそのヨガの象徴として描かれてるんや。
このヨガは、必ずヨガのマスターについてしないと呼吸を制御してするので、酸素不足になって脳や肺にダメージを受ける。経験不足のマスターに付くと間違った事を教えるので危ない。
それで、細かいことは飛ばすけど、背骨の一番下にある生命を維持するムーラーダーラー・チャクラにあるクンダリーニーシャクティという力を、呼吸法によって酸素の供給を制限して呼び起こすんや。
つまり、ゆっくりと規則正しく一定のリズムで呼吸を繰り返す事によって酸素が不足気味になってクンダリーニの霊的力を呼び起こすんや。
これは、とても危険なヨガで体にダメージを与えやすいんや。

これは、酸素が少ない高地でトレーニングしている人や、エベレストの登山をしている人が酸素不足になった時に、神を体験したとか、至高体験をしたという話を聞くけど、そのことを呼吸法によって実現することなんや。
素人はやったら危ないのでこれ以上は言わない。それにこれは、瞑想でもなんでもない。上手くやってたら寿命が伸びたりいろんな効用はあるけど、でも寿命を伸ばさんでも、今ある寿命をどのように愛で満たすかの方が大事や。
それで、このクンダリーニシャクティがさっきも言ったように、蛇のようにクルクルと背骨にある六つのチャクラを通って、頭の大泉門にあるサハスラーラチャクラに到着するんや。

そこには、神聖な光がありその周りを千枚の花弁が取り巻いているんや。それがはまるで、ハスの花のように見えるんや。
それで、人がいろんな欲望や怒りなどを持ったままそのヨガのレベルに到着すると、それらの花びらが真ん中の光に集まって来る。でも、人が神聖な気持ちで修行してこのヨガのレベルにまで来ると逆に神聖な光が大きくなって周りの花びらを包み込んで行くんや。

どちらのケースも一見、ヨガの霊的なパワーを手に入れることが出来たみたいやけど、一方は花びらに神聖な光がくっつくので、ヨガのパワーを得ることが出来るけど、神聖な光がくっついているだけで光そのものにはなれない。もう一方は、神聖な光が拡がって花びらを包み込み、光と花びらが一体となって、花びらが光そのものになることが出来るんや。
前者は、いろんな悪魔の儀式などを通じて、イルちゃんが得ようとしてるパワーなんや。
でも、イルちゃんでそこまで行ってる人はいない。やり方が間違っているし、このクンダリーニヨガはこの世界を神様がお遊びで創造されたと認識しているものでないと出来ないヨガなんや。
イルちゃんのようにこの世に囚われているものは絶対に無理や。
逆に、ヒラニヤカシプのような神に近い人やけど欲望をコントロール出来ないような者は苦行をしてこのヨガのパワーを手に入れることが出来るが、それを間違った目的に使うと神さんに正されることになる。

ポニョ:本来の瞑想とは以前紹介したみたいに、あらゆる場所(や人)の中に愛そのものである神を、おいらたちのする毎日の小さな一つ一つの仕事の中に顕現さすことなんやて言ってたよな。
ヨシオ:そうやったな。それはそうと、インド人の友達に最近男の子が出来て、Aarushて言う名前を付けたんやて。
その名前の意味は、朝陽から差し込む最初の光線っていう意味やねんて。
太陽が地平線から顔を出して差し込む最初の光はとても大事な重要な意味があるらしい。
昔の人は毎朝、一日の始まりには手を叩いて朝陽を拝んではったよな。朝日から出る光線を見るとその光線に含まれている霊的光線が霊体を刺激すると言われてる。

太陽というのは、実は水素やヘリウムガスなどで出来ている物質的な太陽だけではなく、人の身体の中に霊があるように太陽の中にも霊的な太陽があって、その霊的な光線が肉体の中にある霊体を刺激するんや。
ポニョ:何日か前に手の指とか、足を事故で無くした人がまだそこに指とか足があるのを感じるように、肉体の中に霊体があるって言ってたよな。
ヨシオ:こういう話をするとキリが無いけど、実は、俺たちの目の中からも何千万という霊的光線を発しているんや。だから、目が輝いている人っているやろ。キラキラしてる人。

ポニョ:おるおる。生き生きとして輝いてる人がいるな。
ヨシオ:太陽は、この宇宙を人に例えると、宇宙神人の眼と言われてるんや。天啓経典ヴェーダンダでは、スーリアという名の太陽神、エジプトではイルちゃんの好きなラーという神が太陽神なんや。
それで、この太陽神は人が愛に満ち溢れた良い行いをし、良いものを見た時にその霊的な光線を目の中に増やしてくれるんや。
逆に、人のあら探しをしたり、汚らわしいものや、不道徳、非真なものや卑猥なものなどを好んで見ていると、スーリア神は霊的な光線を人の目から人知れず奪って行かれるんや。

ポニョ:人知れず奪うって…。それってスリや。だから、スーリヤ神と言うんか。
ヨシオ:違うんだってばよ。だから、目を見ても、田舎の子はいつも神様の顕現してる自然の中で過ごしているから、見るものは神さんだらけやから、目が輝いている。霊的光線に満ち溢れたキラキラしたええ目をしてる子が多いやろ。

ポニョ:逆に、毎日のようにコンピューターゲームをして、人の荒さがしをし、アダルトサイトを見て喜んでいる人は霊的光線がかなり減少してる、死んだ目になってるな。
それに、お役所仕事で、自分の保身の事や出世のことしか考えていない人も、死んだ魚の目をしてるって、昔から言うもんな。
そう言えば、そんな映画を見たことがある。黒沢監督の「生きる」っていう映画や。ダラダラ生きていた公務員がガンと宣告されて、今まで死んだ魚みたいな目をして生きてきたのを後悔して、残りの人生を社会に役立つことをして歩むという感動的な映画やったな。
ヨシオ:ガンになってから頑張るって偉いけど、もっと早くから頑張っていれば良かったのにな。死んだ魚の目をしている人が突然生き生きした目になるのんは難しいやろな。長年、霊性修行してる人は、その人の目を見ただけで霊格が分かるんや。
ポニョ:そういや、名は体を表すとかいう言葉があるけど、目は霊格を表すということやな。
ヨシオ:それで、そういう芳しくないものばかり見てると、スーリヤ神が霊的な光線を奪っていき最後は失明するんや。
ポニョ:逆に、良いものだけを見て、良いことをしてる人はどんどん目がキラキラしてくるんやな。おいらみたいに。
ヨシオ:ポニョは鯉ばっかり見てるから、魚の目みたいになってるわ。
もう少し詳しく言うと、普段日光浴とかして太陽の光を浴びると、その霊的な光は目からだけではなく体にある無数の神経系統を伝ってハートの虚空に降り注ぐんや。
因みに霊的なハートは人の体の右側つまり心臓と反対側にあるんやけど、人の肉体が死を迎えた瞬間に心の支配下にある感覚器官を司っている霊的感覚は、霊体と融合してハートの虚空に達するんや。そしていよいよ死の瞬間を迎えた時に、魂はそのハートより上昇する極めて微かな一筋の霊的な神経系統を先ほどと逆に伝って霊的な太陽光線に赴き太陽界に旅立つんや。
太陽界に辿りついたあとは、魂の旅の終着点であるこの世界の創造主であるブラフマ神の界まで辿り着けば上がりや。

でも、心がアートマの放つ光で活動していることを知らない無知な魂は、五感の感覚を経てカルマの支配する界に赴くんや。月が明るいのは、月自体が光っているからだと思っているのが、無知や。だから、月の明るさに惑わされて月に行く。でも着いてみればそこは、太陽の光が反射していただけの荒涼としたカルマの世界であった。というわけやな。
ポニョ:はい、外れでした。ああ勘違いの世界ですよ。また生まれ変わってくださいね。
次は、太陽界に間違わずに行きましょうね。太陽界ですよ。ああそう界な。
お後がよろしいようで。
ヨシオ:お後はスペースが無いよ。誰かが喋りすぎるからや。
ポニョ:あんたやないの。

あなたは、自分の目にどれほど膨大な力が潜んでいるかを知っているでしょうか? 目の中には、何千万もの光線が存在しています。太古の人々は、より良いものを見ることができるようにと、太陽神の恩寵を祈願したものでした。スーリヤ・ナマスカール(太陽神への礼拝)をしてその恩寵を祈るときには、あなたの目の中の光線はよりいっそう光輝を放ちます。一方、あなたが他者の過ちを詮索しているときには、太陽神はあなたの目からその光線を取り払い、あなたを盲目にしてしまいます。それゆえ、神によって与えられた諸器官を正しく用いなさい。19/11/02
心は自ら活動しない物質です。自ら活動しない水は、太陽の光を受けて輝きます。それと同じく、自ら活動しない物質である心もまた、内在の神霊の光輝を借りて光るので、あたかも意識あるかのように見えるのです。心の知性が、内在の神霊の光輝を照り返すので、心もまた知性を持つようにみえるのです。ただそれだけなのです。心の本性は無知です。DVJp97
ポニョ:そら、赤の対色は緑やからやろ。赤の信号を見てて、色が消えた後、緑が見えるのと一緒やな。

インド洋に浮かぶロットネス島に沈む夕陽の周りに現れた緑色の太陽の炎
ヨシオ:そうやろな。だからそれと一緒で、この世と霊界は対になってるから、霊界の太陽は緑色をしてるって言われているんや。岡本太郎は別府のビルの壁に緑の太陽と名付けた壁画を作ってるけど、でもそこにある太陽は赤色してるんや。でもその赤い太陽をずっと見て目を閉じたら緑の太陽に見えるんや。
ルドルフシュタイナーは緑のことを、死せる太陽の色と表現したことがある。
また日月神示では…
「お日様、赤いのでないぞ、赤いと思っていたであろうがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ。お日様もひとつでないぞ、ひとりまもられているのざぞ。さむさ狂うのざぞ。」
と記述されている。
霊界に行って面白いのは、霊界の太陽から霊的光線を受ける身体の位置が背中なんや。
というのも、脊髄にある第九番目から十二番目の椎骨までの間の領域に霊的なエネルギーの溜まり場があって、そこを損傷すると、全身が麻痺してしまうんや。
だから。霊界では、太陽に向かって背中を向けて日光浴をするんや。それで、太陽と背中を向けている霊の間を通ったり邪魔したりすると、霊界ではとても失礼なことやねん。
また、脊髄と霊に話に戻るけど、クンダリーニヨガという背骨に六つある生命を維持するシャド・チャクラつまりエネルギーの溜まり場を下の方のチャクラから背骨に沿って登って行く霊的な修行があるんやけど、背骨の間をくるくる螺旋状に登って行くもんやから蛇がそのヨガの象徴として描かれてるんや。
このヨガは、必ずヨガのマスターについてしないと呼吸を制御してするので、酸素不足になって脳や肺にダメージを受ける。経験不足のマスターに付くと間違った事を教えるので危ない。
それで、細かいことは飛ばすけど、背骨の一番下にある生命を維持するムーラーダーラー・チャクラにあるクンダリーニーシャクティという力を、呼吸法によって酸素の供給を制限して呼び起こすんや。
つまり、ゆっくりと規則正しく一定のリズムで呼吸を繰り返す事によって酸素が不足気味になってクンダリーニの霊的力を呼び起こすんや。
これは、とても危険なヨガで体にダメージを与えやすいんや。

これは、酸素が少ない高地でトレーニングしている人や、エベレストの登山をしている人が酸素不足になった時に、神を体験したとか、至高体験をしたという話を聞くけど、そのことを呼吸法によって実現することなんや。
素人はやったら危ないのでこれ以上は言わない。それにこれは、瞑想でもなんでもない。上手くやってたら寿命が伸びたりいろんな効用はあるけど、でも寿命を伸ばさんでも、今ある寿命をどのように愛で満たすかの方が大事や。
それで、このクンダリーニシャクティがさっきも言ったように、蛇のようにクルクルと背骨にある六つのチャクラを通って、頭の大泉門にあるサハスラーラチャクラに到着するんや。

そこには、神聖な光がありその周りを千枚の花弁が取り巻いているんや。それがはまるで、ハスの花のように見えるんや。
それで、人がいろんな欲望や怒りなどを持ったままそのヨガのレベルに到着すると、それらの花びらが真ん中の光に集まって来る。でも、人が神聖な気持ちで修行してこのヨガのレベルにまで来ると逆に神聖な光が大きくなって周りの花びらを包み込んで行くんや。

どちらのケースも一見、ヨガの霊的なパワーを手に入れることが出来たみたいやけど、一方は花びらに神聖な光がくっつくので、ヨガのパワーを得ることが出来るけど、神聖な光がくっついているだけで光そのものにはなれない。もう一方は、神聖な光が拡がって花びらを包み込み、光と花びらが一体となって、花びらが光そのものになることが出来るんや。
前者は、いろんな悪魔の儀式などを通じて、イルちゃんが得ようとしてるパワーなんや。
でも、イルちゃんでそこまで行ってる人はいない。やり方が間違っているし、このクンダリーニヨガはこの世界を神様がお遊びで創造されたと認識しているものでないと出来ないヨガなんや。
イルちゃんのようにこの世に囚われているものは絶対に無理や。
逆に、ヒラニヤカシプのような神に近い人やけど欲望をコントロール出来ないような者は苦行をしてこのヨガのパワーを手に入れることが出来るが、それを間違った目的に使うと神さんに正されることになる。

ポニョ:本来の瞑想とは以前紹介したみたいに、あらゆる場所(や人)の中に愛そのものである神を、おいらたちのする毎日の小さな一つ一つの仕事の中に顕現さすことなんやて言ってたよな。
ヨシオ:そうやったな。それはそうと、インド人の友達に最近男の子が出来て、Aarushて言う名前を付けたんやて。
その名前の意味は、朝陽から差し込む最初の光線っていう意味やねんて。
太陽が地平線から顔を出して差し込む最初の光はとても大事な重要な意味があるらしい。
昔の人は毎朝、一日の始まりには手を叩いて朝陽を拝んではったよな。朝日から出る光線を見るとその光線に含まれている霊的光線が霊体を刺激すると言われてる。

太陽というのは、実は水素やヘリウムガスなどで出来ている物質的な太陽だけではなく、人の身体の中に霊があるように太陽の中にも霊的な太陽があって、その霊的な光線が肉体の中にある霊体を刺激するんや。
ポニョ:何日か前に手の指とか、足を事故で無くした人がまだそこに指とか足があるのを感じるように、肉体の中に霊体があるって言ってたよな。
ヨシオ:こういう話をするとキリが無いけど、実は、俺たちの目の中からも何千万という霊的光線を発しているんや。だから、目が輝いている人っているやろ。キラキラしてる人。

ポニョ:おるおる。生き生きとして輝いてる人がいるな。
ヨシオ:太陽は、この宇宙を人に例えると、宇宙神人の眼と言われてるんや。天啓経典ヴェーダンダでは、スーリアという名の太陽神、エジプトではイルちゃんの好きなラーという神が太陽神なんや。
それで、この太陽神は人が愛に満ち溢れた良い行いをし、良いものを見た時にその霊的な光線を目の中に増やしてくれるんや。
逆に、人のあら探しをしたり、汚らわしいものや、不道徳、非真なものや卑猥なものなどを好んで見ていると、スーリア神は霊的な光線を人の目から人知れず奪って行かれるんや。

ポニョ:人知れず奪うって…。それってスリや。だから、スーリヤ神と言うんか。
ヨシオ:違うんだってばよ。だから、目を見ても、田舎の子はいつも神様の顕現してる自然の中で過ごしているから、見るものは神さんだらけやから、目が輝いている。霊的光線に満ち溢れたキラキラしたええ目をしてる子が多いやろ。

ポニョ:逆に、毎日のようにコンピューターゲームをして、人の荒さがしをし、アダルトサイトを見て喜んでいる人は霊的光線がかなり減少してる、死んだ目になってるな。
それに、お役所仕事で、自分の保身の事や出世のことしか考えていない人も、死んだ魚の目をしてるって、昔から言うもんな。
そう言えば、そんな映画を見たことがある。黒沢監督の「生きる」っていう映画や。ダラダラ生きていた公務員がガンと宣告されて、今まで死んだ魚みたいな目をして生きてきたのを後悔して、残りの人生を社会に役立つことをして歩むという感動的な映画やったな。
ヨシオ:ガンになってから頑張るって偉いけど、もっと早くから頑張っていれば良かったのにな。死んだ魚の目をしている人が突然生き生きした目になるのんは難しいやろな。長年、霊性修行してる人は、その人の目を見ただけで霊格が分かるんや。
ポニョ:そういや、名は体を表すとかいう言葉があるけど、目は霊格を表すということやな。
ヨシオ:それで、そういう芳しくないものばかり見てると、スーリヤ神が霊的な光線を奪っていき最後は失明するんや。
ポニョ:逆に、良いものだけを見て、良いことをしてる人はどんどん目がキラキラしてくるんやな。おいらみたいに。
ヨシオ:ポニョは鯉ばっかり見てるから、魚の目みたいになってるわ。
もう少し詳しく言うと、普段日光浴とかして太陽の光を浴びると、その霊的な光は目からだけではなく体にある無数の神経系統を伝ってハートの虚空に降り注ぐんや。
因みに霊的なハートは人の体の右側つまり心臓と反対側にあるんやけど、人の肉体が死を迎えた瞬間に心の支配下にある感覚器官を司っている霊的感覚は、霊体と融合してハートの虚空に達するんや。そしていよいよ死の瞬間を迎えた時に、魂はそのハートより上昇する極めて微かな一筋の霊的な神経系統を先ほどと逆に伝って霊的な太陽光線に赴き太陽界に旅立つんや。
太陽界に辿りついたあとは、魂の旅の終着点であるこの世界の創造主であるブラフマ神の界まで辿り着けば上がりや。

でも、心がアートマの放つ光で活動していることを知らない無知な魂は、五感の感覚を経てカルマの支配する界に赴くんや。月が明るいのは、月自体が光っているからだと思っているのが、無知や。だから、月の明るさに惑わされて月に行く。でも着いてみればそこは、太陽の光が反射していただけの荒涼としたカルマの世界であった。というわけやな。
ポニョ:はい、外れでした。ああ勘違いの世界ですよ。また生まれ変わってくださいね。
次は、太陽界に間違わずに行きましょうね。太陽界ですよ。ああそう界な。
お後がよろしいようで。
ヨシオ:お後はスペースが無いよ。誰かが喋りすぎるからや。
ポニョ:あんたやないの。

あなたは、自分の目にどれほど膨大な力が潜んでいるかを知っているでしょうか? 目の中には、何千万もの光線が存在しています。太古の人々は、より良いものを見ることができるようにと、太陽神の恩寵を祈願したものでした。スーリヤ・ナマスカール(太陽神への礼拝)をしてその恩寵を祈るときには、あなたの目の中の光線はよりいっそう光輝を放ちます。一方、あなたが他者の過ちを詮索しているときには、太陽神はあなたの目からその光線を取り払い、あなたを盲目にしてしまいます。それゆえ、神によって与えられた諸器官を正しく用いなさい。19/11/02
心は自ら活動しない物質です。自ら活動しない水は、太陽の光を受けて輝きます。それと同じく、自ら活動しない物質である心もまた、内在の神霊の光輝を借りて光るので、あたかも意識あるかのように見えるのです。心の知性が、内在の神霊の光輝を照り返すので、心もまた知性を持つようにみえるのです。ただそれだけなのです。心の本性は無知です。DVJp97