敗者復活戦と歯医者へ復活せんの違い | 労人社のブログ

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戦中日記(続労人社だより)230205号

「敗者復活戦と歯医者へ復活せんの違い」

☄️今日は敗者復活戦の日。で、はなく歯医者へ復活せんの日。昨年くれに上下2本の歯を抜いて、40余日の中断をへて、当初予定していた4本の残り2本の歯(1本はむし歯)を本日抜歯する!いてっ。たった2本の麻酔で、さほど痛さを感じることのなかった前回暮れの戦いと違い、今回は歯肉にメスを加える。「歯ぐきから血が出ませんか?」。そうではなくて、抜歯した翌日も傷ぐちからウイルスが入り、大きく腫れて痛むのではないか?そこんとこが少し不安なのだ。

⭐️そもそも、前回の抜歯から40日も時間が経過したのはウイルスのため。試しに行ったコロナ感染検査が陽性を示したせいで、長期にわたる自宅軟禁を強要された。治療もなく市販薬を処方され、ひたすらベッドに横になるだけの日々。筋肉は痩せ落ち、頭皮は輝きをまし、体力もなくなる。老人の1週間は若者の1ケ月に相当し、無症状であった爺がいよいよ病人にと化した。早く、歯医者へいき抜歯をしたい。と強く思った。

🌗ぼくが歯医者に行く気になったのはむし歯のためではない。単に見た目を気にしたため。サシ歯がとれ、鏡に写る歯っ欠け顔が貧相に見えた。あほシンゾウら政治家の顔のように。いやいや、ぼくの顔にはそこはかとなく品が残る。マスクをすれば問題はない。それが、財政出資を減らすだけの目的で、5類移行を強行されれば、何とかしなければならない。歯医者への復活はぼくにとり喫緊の課題となっていたのだ。

🌏敗者復活戦と歯医者復活せん!は語感が似ている。ニホン的伝統文化であるダジャレはこの語感だけが命である。高校生時代に辻潤の本にはまり込み、辻潤と迂闊という文字がよく似ていることを発見して喜んだ。迂闊にも何が書かれていたかは記憶にない。迂闊であったで済ますしかない。しかし、心身健康な隔離患者の楽しみはどうも言葉遊びしかない、軟禁中の副作用の成果が言葉遊びの復活であった。

💫ぼくの人生の座右の銘が(遊びをせんとや生まれけむ)だ。梁塵秘抄の代表歌で平安期の庶民の気持ちを表現した。今様である。今様であるからには、現代人の心も「人は遊ぼうとしてこの世に生まれてきたのだ。子どもらが楽しく歌い、踊る姿を見ればわかるじゃないか」で変わりようがないだろう。庶民が生活の苦しさや、お上が疫病、祟りに無力なくせに、偉そうに、増税ばかりしやがる、と笑い飛ばす点に今様が流行ったわけがあった。争いをやめて、遊べ遊べ!だ。

★最近、都で流行る今様にこういうのがあるそうな。(わたしや妻が関係していたということになれば、まさにわたしは、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申しあげておきたい)という歌。あほシンゾウという稀代のうつけ者が、今から5年前の2月17日に新曲発表している。流行りに流行ったのだが、このうつけ議員も辞めずに、あげく狙撃者により射殺されてしまった。

🌤さて、うつけ者が敗者復活戦を企んでいる。懲りもせず忖度衆が(回顧録)を刊行するそうだ。すでに、あほシンゾウの評伝本では「嘘つきシンちゃんの脳みそ」という名著があり、この本に付け加えることはもう何もない。108の嘘答弁をはじめ刊行されてはいないにしろ、うつけの人となりは(あほ)の一語に集約されている。回顧録が悔悟でも、解雇録でもないことに、この本の内容のなさがしれる。(わたしや嫁が)への怒りの復活だけが、政治のコロナ感染を防ぐことができよう。

✨回顧録には(わたしや嫁が)について何かふれているのだろうか?嘘つきシンちゃんの口の中は、あほのマスクで隠すことが出来ても、発言自体は元に戻せない。歯槽のう漏でも、むし歯でも生命を危うくする害虫は抜いてしまわねば。(それはもう辞めるということをはっきり申し上げた)くせに、居直ってはよくない。辞めずに居直ったから殺された。さぁ、これから抜歯に、歯医者に遊びに行こう。そうすれば、死ぬことはあるまい。歯医者へ復活せん!ちょっと怖い。