エドソンアランテスドナシメントが死んだ | 労人社のブログ

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戦中日記(続労人社だより)221258号

「エドソンアランテスドナシメントが死んだ」

😱ペレが亡くなった。サッカーの王様の形容詞など不要で、(ペレ)と言えばペレしかいない。歴史的に見ても、(ペレ)は唯一無二の存在であった。今年も多くの著名人が死んだ。しかし、同じ時代の空気が吸えたそのことだけで、哀悼の意を深くし、感謝の言葉をかけたくなる人は少ない。訃報に(巨星墜つ)の見出しがおどったのは、ぼくの経験では毛沢東が最後ではなかったか?でも、われわれペレと同時代を生きた老人たちには(ペレ)にこそ巨星墜つがふさわしい。

😏ある友人が居酒屋で酒を呑みながら(同時代体験のない奴は信じない)と話した。この場合、政治的体験であったが、(同じ釜のメシを食べた)仲間たち、戦友や学生寮の住人、同好趣味者などが同じ体験経験を通じて、相互の絆を深めることは当然あろう。クラス会や同窓会がいつの時代でも懐かしく、盛況?である理由がある。

💔今年、亡くなった著名人との同時代体験で、素直に感謝し得る人物は西郷輝彦、アントニオ猪木、そしてペレぐらい。いや、逆の視点からは石原慎太郎やあほシンゾウがいる。(その死も功徳)で、ぼくが生きている間に、あの世に逝ったことだけがせめてもの救いであるようなクソ野郎たちだ。翼賛政治、軍事増税、原発再稼働を準備しての、断罪もされずにほほんと死んだ巨悪?いや小悪人どものことだ。

😡別の友人がこんなことを話した。(ぼくらはいまだビートルズを超える文化を獲得していない)????。こういうことらしい。政治、文化、芸術の分野において、体験することを通じて、同じ時代を生きる喜びとか感謝の念を抱くような対象がない。わかり易く例えれば、ここ数十年というものペレを超える選手がいない。年末の紅白で時代を象徴する唄がないこと。この傾向はより強まっており、現在はまさに啄木のいう「時代閉塞の現状」にある。

🍺著名人でなければ、今年の死者はコロナ禍での死亡という時代が刻印されている。科学技術の発展をもって、人間さまは自然を思いのままに支配できるという人間中心思想が、微小なウイルスや二酸化炭素にズタズタにされた。加えて、医療崩壊で貧しい人間だけが死亡させられ、生命こそが資本蓄積の栄養素である(新しい資本主義)の実相を示した。多くの庶民には今年の死は一言で言えば(悲惨な死)であった。

💰さて、師走の30日は江戸の町人には借金の取り立てからどのように逃れるか?の日。この日を過ぎれば、取り立てもなくなり、向こう1年はツケでものを買うこともできる。江戸期、税を納めていたのは農民だけで、商人は税金を支払わない。納税者こそ国の柱であり、いくら経済活動を支配した商人としても、そう強くは出れない。政治屋、官僚、法律家等の不生産労働者が偉い顔して税金をワタクシする今とは大きな違いだ。

㊗️さてさて、三遊亭円楽も今年亡くなった一人。師走の落語ネタといえば、掛取漫才か芝浜で決まり。とくに芝浜は第九と並ぶ定番中の定番。円朝が作り、三木助が完成させた噺で、やはりこの人情噺に接し得たことには感謝するだけ。もちろん、現在の若者たちがこの作品に親和性を持つかどうか?はわからない。拾った財布は(ありがたく貰っておく)世代性の方が強いかもしれない。しかし、噺には演じる落語家の同時代意識、解釈が加わる。今夜は円楽の芝浜でも聴いてみるか!