2つの5・15、国家の暴力 | 労人社のブログ

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戦中日記(続労人社だより)220522号

「2つの5・15、国家の暴力」

😳(核つき、ドレイ並み)で、沖縄が日本本土復帰して50年になる。そして、海軍の若手将校たちが蹶起反乱を起こして90年になる。2つの5・15に共通するのは、国民国家、あるいは民族国家が独占する暴力の問題である。資本制生産と軌を一にする国民国家がむき出しの暴力により組織されていることを露わにしたのが2つの5・15である。

😇フィンランドがNATO加盟を証明した。国家防衛、自衛のためである。自称軍事評論家、コメンテーターの多くが、マリンのこの決意を(英断)として誉めそやしている。しかし、山口組と反山口組の幹部さんに意見を徴すれば(軍事同盟は安全保障に繋がらず、お互いにそれで喧嘩に勝てると思う)から共謀する。だから、NATO加盟は戦争拡大にのみ役立つ。

😱5・15の青年将校たちが死刑にされず、微罪に処されたことが、後々の軍国主義化をもたらしたとの意見が少なくない。当時の政治・経済がいき詰まり、瀕死の政党政治、汚職、贈収賄が蔓延する政官財の腐敗ぶりを実体験する国民たちから嘆願書が殺到したのも軽い処分の一因であったであろう。ただ、2・26の将校らがほぼ問答無用の形で殺処分を受けた点とは相当の違いがある。

💢日本が明治維新を(富国強兵)(殖産興業)というまったく異なる国是で近代化をスタートさせた点は注目されていい。欧州で資本制生産が国民国家をパートナーに発展を開始した時、すべての国民国家には近代植民政策に象徴されるように、(暴力)を内在していた。ただ、産業資本を主役に、科学技術による社会的生産力の向上を追い求めた時期には、国民国家は穏やかな(民主的)?な顔を見せることができた。

✊日本が明治維新を経て、20世紀を前に遅れてきた帝国主義を大看板に育てあげるためには(富国強兵)を殖産興業の上に置くしかない。その暴力を、その銃口を労働者国民、アジアの庶民に向けるしかない。暴力は刀狩り以降、国家の独占物であり、軍隊は単なる運転士でしかない。5・15当時、疲弊する農村と武装する兵士の出自が重なっていた。2・26の殺処分は、国民国家が、皇軍が暴力を完全独占したとの宣言でしかない。

😴沖縄の米軍基地に核兵器のカゲがあるであろうことは、誰も否定できない。核持ち込みの事前協議がないことが逆に、核兵器が自由自在であることを想像させる。沖縄県民の生存権が、日米地位協定という日本国家の意志により踏みにじられ、本土並みどころか、本土在住国民のささやかな〜先進国中最低レベル〜生活を維持するための鎮め石とされている。

💤沖縄県民の日常生活が、アメリカ兵士が構える銃口の先で行われている。不当な暴力に対して、国家が安全保障のために定めたであろう法律に基づく訴訟もまともに受け付けられない。地位協定の原点は、ヒロシト(人でなしの意)が國體護持の見返りに、マックに(沖縄をご自由にお使いください)と申し出たことに起因する。〜多分、そうだ〜。あまりのDVに、家族のもとに逃げ帰ったものの、家族のものはもっと冷たかった。

😡漱石が生まれて直ぐ、養子にされ、養家の不都合で夏目家に復籍したものの、漱石の心は慰藉されることはなかった。日本、英国で近代化の急激な流れに抗した彼は、いくたびの戦争を見聞きし、植民政策という醜悪極まる国家の暴力を体験した。漱石の小説の主題が金銭、家族と近代国家であった。1902年版の資本論を蔵書し、マルクスのような所説が出てくるのは(当然のこと)と文章に記した、漱石の国民国家の暴力に抗い続ける心根が、天皇、ニホン国のご都合で、苦渋を強いられる沖縄県民のそれと重なってみえてくる。