不良のいない卒業式 | 労人社のブログ

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労人社だより第16028号
    本校では平穏無事な卒業式が終わった。“平穏無事に”ではなく、あくまで“平穏無事な”卒業式がである。 かつては、「荒れる卒業式」がニュースになったことがザラにあり、勉強のできん坊たちが日ごろのうっ憤を晴らし、暴れるということが最近にも多くあった。成人の日に酒の飲んだ勢いで暴れるのと、ちょっと似ている。ほんのちょっとだ。
    いまの卒業式は、いわば「不良のいない卒業式」。学業不良、素行不良ではなく、学校当局にとっては異物ともいうべき、クレーマーたちである。学問に異論反論がないはずがない。むしろ、異論反論こそが真実に近付く方法であって、学校教育で重要なのは教師(先達)の教えにまつらわない不良の弟子を生み出すことにある。卒業式にそんな不良が存在しない。まつらう(服らう、順らう)学生のみが修了証書を授与される。東京帝大が国家を統べる官僚を養成する教育機関であることは承知の通りであるが、その他諸々の学校は従順な労働者を生み出す機関にまで堕してきた。
    フクシマ原発事故から5年を経て、逃れの人々が帰郷がいまだ叶わぬ一方で、原発再稼働の流れが拡大している。虚ろな(きずな)のキャンペーンが、東大を優秀な成績で卒業した官僚たちが描いたシナリオよる利権確保、体制維持のためでしかないことは、この5年間の歩みで明らかだろう。学校教育がこうした世の中の動きと無縁であるはずはないが、いまの社会のあり方に疑問を感じた学生には卒業証書が授与されない。不良であることが許されない時代になってしまった。
    我らの時代の成績評価は12345。いわゆる相対評価で、君は上から、いやいや下から何番目であるぞ!と判定される。スマップのオンリー1が強大な圧力で押し潰されたように、ただただ順位で人間が評価される。幸せな人生の(金儲けのため)にはno1を目指せと教わった。ぼくより上の世代の教育では、学業が優良可不可で判断された。現代との違いは人間が人間を見る絶対評価で、ここには学生の方から教師を判定する師弟関係も隠されている。「あんたはぼくの教師たり得ない」というのがその評価である。この学生が不良だ。もちろん、優良可不可の評価基準には不良は含まれない。足元の体制を支える官僚後継者は優秀とされる学生で、不可は失格と判断されたものだ。しかし、不良は単にその関係性の中で「異質」として排除されただけで、人間そのものが否定されたわけではない。むしろ、異質が突出することで真理が浮かび上がる。教育にとっては不良を多く生み出すことのほうが進歩を促進することにつながるのだ。むかしの優良可不可の評価基準からもうかがえる。
    さて、12345の評価がどんなに学生を萎縮させ、資本を資する世の中、従順な労働者を再生産してきたのは、3-11の(記念番組)を報道するマスコミの姿勢を見ればわかる。絆論が5年を経て風化してきました。もっと、頑張ろうニッポンという薄汚れた論調である。アホとその仲間たちという最悪の為政者を免罪してノホホンと日常生活を過ごし何の疑念も持たない、いまの世の中は12345評価の成果だ。たくさんの国民は文句を言っていない。あんたの生活は中の下でも、フクシマの人たちに比べればいい方だよ、というやつらのセリフが聴こえる気がする。不良のいない卒業式は、いまの世の中の縮図である。3年の学校生活は当たり前の感性を持つ不良たちを育てられない点からして、教育の名には値しない。束縛からの卒業、自分からの卒業、我々らがいま卒業しなければいけないのは、歴史上最も愚劣、あほな、醜悪な、思い上がりな~罵倒すべき言葉が限度がありません~アホとその仲間たちの政治からでしょうが、、、不良にならなければ、その関係性から卒業できるわけがないではありませんか!不良の称号こそが本当の卒業証書なのです。