ツバキ咲く春なのに | 労人社のブログ

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労人社だより第16024号
    駅へ向かう道すがらの辛夷の木が大きく切られており、この時期毎年付けていた芽がでる様子がない。春を告げる花や木は歳時記をみればふんだんに載っているが、梅-辛夷-桜の連係こそが王道であった。花札では2月の梅、3月の桜で春を表現し尽くしているのだが、実際の季節は2月、5月の間のこの時期に辛夷がツナギにならないと、町中の花が消える。強いて探せば(ツバキ)くらいで、でも、木偏に春と書く割には、この椿の木は春のイメージが薄い。
   子どもの頃、椿の木を盗み掘りして我が家に植えたことがある。光学系会社の壁面に植えられていた若木を相当な時間をかけて掘り返して、自宅に持ち帰った。今なら立派な窃盗であるが、~むかしのことなど分からない~家の者も含めて何も言われなかった。ただ、純白のツバキが珍しく、綺麗であったので、「ウチに持って行ったろ」と思っただけ。素直な少年であった。
   この椿、我が家の土壌に合ったらしく、その後、スクスクと育ち毎年春に多くの花が咲き、塀越しに見ては沢山の通りすがりの人びとを愉しませた。後年、ぼくがよその家の梅や辛夷の花が咲くのを見ては春の訪れを感じたようにだ。ツバキの盗み堀りは世の中に功徳を施した結果になった。許すとしよう。この椿はその後も30年近くも花を咲かせ続けたが、家の者の評判はそれほど良くなかった。
   そもそも、木偏に春と書くにしては、ツバキの花は人気がないのではないか。春なのにあなたは帰らない、手紙の返事もない。ゆびを触れただけでポツンと落ちてしまう。春の花にしてはいささか暗いイメージがある。伊豆大島に早い春を求めて椿満開の島を訪れた時も、同行の人は寒さのあまり観光馬の背に跨ったまま鼻水を垂らしていたものだ。ツバキに木偏に春の漢字を当てなければよかったのに。梅と桜の間に割って入るにしては役不足の花なのだろう。
   ところで、我が家でツバキの評判がいまイチであった理由は、花の盛りの時期には純白の花が美しいが、花びらの汚れが浮き出た途端、ぼっトンと頭から落ちて掃除が大変であったためのようだ。当時、東京のトイレ事情はトートとは流れず、ぼっトン便所が一般的であった。便所の窓からも清楚に咲くツバキの花が見えた。違うか?
   さて、どこかの家に辛夷の花が咲いていないか?駅までの道を変えてみるとするか!♫コブシ咲く、あの北国の、北国のをはーる。