仲哀天皇・神功皇后の生涯と石碑1 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

今回からは、仲哀天皇と神功皇后の生涯を、

これまでに取り上げてきた石碑・モニュメントを

振り返りながら、ご紹介していきたいと思います。

神話の時代の人物なので、年代はもちろんのこと、

実在性についても疑義があるところですが、

まあ、それはそれとして。

 

なお、西暦で表記しておりますが、

旧暦との日にちのズレは勘案しておりません。

 

 

第14代天皇と伝えられる仲哀天皇は、

名を足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)と言い、

日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2子です。

母親は垂仁天皇の娘・両道入姫命

(ふたじいりひめのみこと)で、

父・日本武尊から見れば、おばに当たります。

容姿端麗な男性だったそうです。

叔父の成務天皇に男児ができなかったことから、

その後を継いで、西暦192年に、44歳で即位しました。

 

翌193年、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を

皇后とします。

これが神功皇后で、才色兼備な女性であったそうです。

神功皇后の父・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)は、

開化天皇の玄孫、

母・葛城高ヌカ媛(かずらきのたかぬかひめ。

「ヌカ」は桑に頁)は、垂仁天皇の御代に新羅から渡来した

天日槍(あめのひぼこ)の子孫だと言われています。

 

天皇は現・福井県敦賀市に笥飯宮を設け、皇后をそこに留め、

現・和歌山市の徳勒津宮に行幸しました。

その時、九州の熊襲が朝貢を拒んだため、

天皇は熊襲討伐に向かうこととし、

皇后に穴門(現・下関市)で落ち合うこととしました。

そして、穴門で設けたのが豊浦宮です。

現在の忌宮神社の地にあったと伝えられています。

 

 

 

 「豊浦皇居趾」の碑

 

 

次回へ続きます。

 

※掲載写真については↓こちらもご参照ください。