昨秋の功山寺です。
功山寺は、1320年、虚庵玄寂により「長福寺」として開山。
室町時代には大内氏に信仰されますが、
1557年に大内氏最後の当主・義長が同寺で自害し、
大内氏が滅亡すると、功山寺自身も一旦衰退します。
しかし、1602年、長府藩初代藩主・毛利秀元が再興。
一旦「笑山寺」と称するようになります。
その際、秀元が招聘したのが、
広島廿日市にある洞雲寺の三庭龍達です。
1650年、秀元が死去。
彼の法名「智門寺功山玄誉大居士」により
現在の「功山寺」に改称となりました。
功山寺の法堂です。
今回、法堂・庫裡・書院の内部を拝観しましたので、
その様子をご紹介します。
※ブログ掲載について、功山寺様の許可をいただいております。
書院は市の指定文化財です。
↑ここは「七卿潜居の間」です。
1864年12月15日、高杉晋作は功山寺で
長州藩俗論派打倒のための兵を挙げました。
「功山寺挙兵」「回天義挙」と呼ばれるものです。
功山寺には、三条実美ら5人の公家が潜居しており、
晋作は、彼らに長州男児の肝っ玉を見せると挨拶し、
兵を挙げるのです。
実際に功山寺に潜居していた公家は5人ですが、
前年の、八月十八日の政変の結果、
京を追われることになったのは7人です。
いわゆる「七卿落ち」です。
なので、「七卿潜居」と呼ばれています。
ちなみに、功山寺側が5人の公家を
積極的に受け入れたのかというと、そうではなく、
無理強いをして宿泊させてもらっていたようです。
安倍晋三元首相揮毫の扁額。
長くなったので、続きは次回にします。
功山寺書院の場所は↓こちらです。