乃木希典と吉田松陰の親戚関係 | ねりえ日和

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以前、乃木希典の経歴をご紹介しました。

 

 

その中でもお話ししましたが、

吉田松陰の叔父・玉木文之進は、希典の親戚だそうでして、

ということは、乃木希典と吉田松陰も親戚ということですよね。

 

ということで、両者の関係を示す家系図を作成してみました。

※一部諸説あります。

 

PCに保存いただければ、

大きめの画像でご覧いただけると思います。

 

 

長府藩士としての乃木家(乃木宗家)は、

1682年に乃木伝庵が長府藩に士官したことにより始まります。

伝庵の妻・染女は、長州毛利藩第2代藩主・綱広の娘・幸姫に

年寄格の女中「玉木」として仕え、

1702年、彼女の功績によって、

伝庵の子・春政により、玉木家が誕生します。

 

乃木宗家の方は、伝庵の甥・随友が継ぎますが、

1752年、随友が家督を譲る前に長男・希和が

長府藩から長州藩に移ったため、

分家である長州藩の乃木家が発足することになります。

宗家は弟の随陽が継ぎました。

 

その後の乃木宗家は何度かの養子縁組も経た後、

分家である希和の孫・希幸と希次が当主を継ぎました。

そして、希次の後を継いだのが、希次の三男・希典です。

 

さて、一方の玉木家についてです。

創始した春政は、未婚のまま若くして死亡しています。

そのため養子を迎えておりますが、

その後も養子縁組が多かったようです。

1820年には、杉家より養子を迎えました。

それが、松陰の叔父で、松下村塾を開いた文之進です。

 

文之進の子・彦助は、高杉晋作と共に長州藩俗論派と戦い、

1865年に命を落としました。

そのため、文之進は乃木宗家から養子を迎えます。

それが希典の弟・正誼です。

正誼は松陰の姪・豊子を妻に迎えますが、

明治9年(1876年)、萩の乱で戦死。

この時、養子や弟子たちが萩の乱に参加した責任を負って、

文之進も自害しています。

 

文之進と希典の父・希次は仲が良かったそうです。

希典が文之進から学問を教わったこともありました。

希典が、文之進の甥・松陰と面識があったかどうかは

確認できておりませんが、

松陰の甥で、死後松陰の養子になっている

吉田庫三とは親しかったそうです。

 

また、松陰没後断絶していた吉田家を継承した

松陰の甥(庫三の従兄)・小太郎は、

希典の弟・正誼の妻・豊子の弟ですが、

正誼同様、萩の乱で戦死しています。