長府の商店街に建てられている「乃木さん通り」の碑です。
昭和61年(1986年)に建てられました。
「乃木さん通り」はこの通りの愛称です。
旧山陽道でもあります。
下関市は多くの歴史の舞台となってきたため、
ゆかりの偉人もたくさんいるわけですが、
その中でも、長府藩出身の英傑と言って、
その筆頭に挙げられるのは、乃木希典だと思います。
このブログでも何度も登場していますが、
今まで彼についてきちんとご説明したことがなかったので、
改めてご紹介いたします。
乃木希典は1849年に江戸・長府藩上屋敷で生まれました。
1858年に長府に移り、
1863年より、「長府の松下村塾」と言われた集童場で学びました。
その後、学者を志し、吉田松陰の叔父で、自身の親戚でもある
玉木文之進に教えを受けるようになります。
萩本藩の藩校・明倫館でも学んでいます。
さて、奇兵隊結成後、長州では
「長州藩諸隊」と呼ばれる多くの有志の部隊が結成されます。
その中に、長府藩で結成された「報国隊」がありました。
報国隊には集童場で学んでいた少年たちも加入しており、
少年16人の筆頭として盟約状に署名血判をしたのが
「乃木無人源頼時」、すなわち、希典でした
(彼は、明治4年(1871年)から「希典」と名乗っています。)。
希典は報告隊士として、1866年、四境戦争小倉口の戦いに参戦。
これが初陣となりました。
奇兵隊・山県有朋の指揮下に属し、小倉城に1番乗りしたそうです。
そして、明治維新後、希典は陸軍軍人の道を歩むことになります。
明治10年(1877年)、西南戦争が勃発。
その際、希典率いる連隊が、連隊旗を喪失してしまいました。
希典は有朋に「待罪書」を送り、自身の処分を求めますが、
有朋は、戦闘中の不可抗力として、罪に問いませんでした。
明治37年(1904年)、日露戦争勃発。
大将に昇進した希典は旅順包囲戦の指揮を取ります。
旅順陥落後、希典はロシアの敵将・ステッセル(ステッセリ)と
会見しますが、その際、明治天皇の意向を受け、
国のために戦ったステッセルらに対し、
帯剣を許し、酒を振る舞うなど、礼を尽くして接しました。
世界中に感銘を与え、文部省唱歌にもなった「水師営の会見」です。
なお、日露戦争で、希典は2人の息子を亡くしました。
明治40年(1907年)、希典は学習院長に就任。
翌年には、後の昭和天皇である迪宮裕仁親王が入学。
その養育を担いました。
そして、明治天皇崩御後の大正元年(1912年)、
妻・静子とともに自刃。
西南戦争で連隊旗を奪われたことをずっと悔やんでおり、
明治天皇崩御を受けて自らも命を絶ったのでした。