飯塚開祖飯塚三郎之碑(再掲) | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

下関市豊田町手洗。

石町バス停の北西側に、小山があります。

 

 

↑この写真は、その小山を更に西側から撮影したものですが、

 

 

山頂に石碑が建てられているのが見えます。

 

この小山は「飯塚城」というお城の跡で、

この碑は「飯塚開祖飯塚三郎之碑」という碑なのだそうです。

 

……というところまでは、以前ご紹介しました。

で、その際、「いつか近くまで行ってみたい」と

申し上げていたのですが、

 

ええ、頑張って行ってきましたよ!!

 

というわけで、平成最後にご紹介する石碑は、

「飯塚開祖飯塚三郎之碑」です。

 

 

改めて調べてみると、この小山の名前は飯塚山。

ご飯を盛っている形に似ているからだそうですが、

それに加えて、山頂に塚があるからという説もあるみたいです。

標高83.1mの小さな山です。

 

周辺一帯の地区名も「飯塚」で、

豊田下郵便局の隣には「飯塚公会堂」もあります。

 

 

さて、南北朝時代、

防長の三大豪族の1つである豊田氏の第13代当主・種藤は、

大内氏(第24代当主・弘世)が勢力を伸ばしていく中、

長正司城(長生寺城)を築き、周辺の街道に睨みを利かせました。

 

そのうち、南へ向かう小月街道には、

以前ご紹介した「平安・鎌倉時代の関所跡」の碑があるとおり、

関所が築かれておりましたが、

更に、重臣・飯塚三郎が飯塚城(飯塚城塁)を築き、

守りを固めました。

 

それが、この飯塚山です。

 

 

飯塚山に登るに当たり、西側に旧山道が、

また、北側に木材伐出道があることを確認しておりました。

山頂には放送設備もありますので、

そのメンテナンスのために人が山頂まで登っているはず、

という思いもありました。

 

が、ざっと通ってみた限りでは、

西側旧山道の入り口は分かりませんでした。

結果、北側木材伐出道を選択。

 

 

↑この道を登ります。

 

登ったところ、確かに道はあるのですが、かなり急です。

「これって帰りは降りられるのかな?」と思いながらも、

とりあえず登ります。

ところどころに鹿の糞が落ちていて、

なんとなく、一の谷の戦いの話を思い出したりしました。

 

 

で。

 

 

 

到着!!

 

正直申し上げて、

思っていたよりもずっと手入れが行き届いておりました。

 

 

 

これが、「飯塚開祖飯塚三郎之碑」。

碑の石には、山の麓にあった古墳の、

石室の蓋が用いられたそうです。

昭和15年(1940年)に、

皇紀2600年を記念して建てられました。

 

 

「皇紀」とは日本版の西暦のようなものです。

初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を

元年としています。

その年に日本が建国されたという考え方です。

 

昭和15年、皇紀2600年を迎えたことは、

盛大に祝われたようです。

日中戦争の影響で結局開催されませんでしたが、

皇紀2600年の記念行事として、

夏季オリンピック(東京)、冬季オリンピック(札幌)、

万国博覧会(東京)が開催されることも決まっておりました。

 

 

また、碑の背後(西側)には下関市の最高峰・華山が見えますが、

三郎は、華山にある神上寺との土地争いの結果、

この山で切腹したと伝えられています。

 

 

 

碑の隣にある放送設備。

 

 

山頂から東側を望む。

 

 

山頂からは旧山道の場所が分かったので、

帰りはそちらの道を使ってみました。

が、その道は、人が通っているようではありませんでした。

 

出口も……

 

 

 

↑こんな感じ。

通っても気付かないわけです。

 

なお、麓側からは、南側にも木材伐出道と

思われるものが確認できましたが、

山頂側からは、崖があるようにしか見えなかったので、

使いませんでした。

 

 

碑の場所はこちらです。

 

 

令和も引き続き、「ねりえ日和」をよろしくお願いいたします。