亀山八幡宮の境内にある「六連報一週年祝賀紀年之碑」です。
実は、以前ご紹介した飯尾宗祇の句碑と同じ碑です。
碑の別の面に「六連報一週年祝賀紀年之碑」と記されています。
大正初期の下関は、築港問題に揺れていました。
これは、大正元年(1912年)に市会に提案された
「下関港第一期改良工事計画」に端を発し、
そこに民間の埋め立て計画などが絡んだもので、
市会議員27人が辞職するような大騒ぎとなりました。
そのような中、反対派が招聘したのが、
佐々木安五郎(照山)でした。
安五郎は現在の下関市豊北町出身の大陸浪人で、
衆議院議員などを歴任。
内モンゴル探検の経験から「蒙古王」とも呼ばれました。
安五郎は、大正2年(1913年)に新聞「六連報」を発刊。
築港反対の論陣を張り、反対派の勝利に貢献しました。
彼が団長を務めた「六連団」の名は、
彼が六連島の西教寺に滞在したことに、
また、彼の号である「照山」は、
西教寺の山号「海照山」に由来すると言われています。
碑は、大正3年(1914年)に、六連団青年会が建立しました。
元々境内西側の階段の近くにあったそうですが、
現在は、正面階段の近くに移設されています。
場所はこちらです。