愛新覚羅社、愛新覚羅社 由来記 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

下関市綾羅木の中山神社の境内に

摂社・愛新覚羅社があります。

「愛新覚羅」というのは、中国・清の皇帝の姓です。

 

神社には、愛新覚羅溥傑、愛新覚羅(嵯峨)浩、

愛新覚羅慧生の3人が祀られています。

 

 

ここからは、以前ご紹介した中山忠光の家系図も

ご参照いただければと思います。

 

中山神社に祀られている忠光は、

正室として、平戸藩主・松浦熈の娘・富子を

妻に迎えていたそうですが、

富子との間には子はありません。

しかし、長州での潜伏中に、

商家の娘・恩地トミ(登美)を側女としており、

そのトミとの間には娘・仲子(南茄)が生まれています。

仲子が生まれたのは、忠光が暗殺された翌年のことです。

 

その後、仲子は富子が育てることになりました。

明治3年(1870年)、萩毛利藩主・毛利元徳の養子となり、

後、トミと共に中山家に引き取られました。

そして、仲子は、明治16年(1883年)、

嵯峨家当主・公勝に嫁ぎます。

嵯峨家は天皇家とも近く、後に侯爵となった家柄です。

仲子と公勝との間に、嵯峨家を継いだ実勝がおり、

そして、その長女として生まれたのが、

後に「流転の王妃」と呼ばれる浩です。

 

浩は昭和12年(1937年)、

清最後の皇帝にして満州国皇帝であった

「ラストエンペラー」こと愛新覚羅溥儀の弟に当たる

愛新覚羅溥傑と結婚します。

しかし、終戦を満州で迎え、夫・溥傑とも離れ離れとなり、

各地を転々とすることになります。

終戦から2年後の昭和22年(1947年)に帰国。

溥傑と再開できたのは、昭和36年(1961年)のことでした。

 

溥傑は戦犯として中国で収容されていましたが、

昭和35年(1960年)に釈放され、翌年、浩と再開したのです。

その後2人は中国で暮らしています。

 

そして、浩と溥傑との間に

長女として生まれたのが愛新覚羅慧生です。

彼女は終戦を日本で迎えています。

大学生であった昭和32年(1957年)に、

天城山中で、同級生の男子大学生・大久保武道と共に

死体で発見されまました。

「天城山心中」と呼ばれた事件です。

 

昭和62年(1987年)、浩が死亡します。

「夫婦が死亡した時には、中国大陸に近く、

 ゆかりの地でもある中山神社に祀ってほしい」旨の遺言から、

翌昭和63年(1988年)に、

愛新覚羅社が創建されたとのことです。

 

なお、神社の社殿は東か南向きに造られるのが普通ですが、

愛新覚羅社は、西にある中国大陸の方を向いています。

 

 

 

愛新覚羅社の社号碑です。

書家としても知られる溥傑が揮毫しています。

 

 

愛新覚羅社創建時、溥傑は存命でした。

平成6年(1994年)に死亡しますが、本人の希望により、

愛新覚羅社に納められていた浩・慧生の遺骨ともども、

遺骨は日中で半分に分けられました。

中国側の遺骨は妙峰山の上空から散骨され、

日本側の遺骨は愛新覚羅社に納められたとのことです。

 

 

ねりえルールとしては、社号碑も含め、

施設や観光地の入口にある看板的なものは

石碑とはちょっと違うと思っているのですが、

祭神自らが揮毫している社号碑というのも珍しいと思い、

石碑としてご紹介させていただきました。

 

まあ、この辺の石碑か否かの整理は曖昧です(苦笑)

 

 

 

愛新覚羅社の由来記です。

溥傑の死の翌年、平成7年(1995年)に建てられました。

 

 

愛新覚羅社の場所はこちらです。