桜山神社の境内に建てられている「内田重成翁欽仰碑」です。
内田重成は、碑の揮毫者や撰文者として
何度もこのブログに登場していますが、
裁判官、実業家など多方面に活躍した人物です。
重成は、明治元年(1868年)1月に、下関内日で生まれました。
生まれた時は、慶応4年だったのですが、
明治改元の詔書により、1月1日に遡及して
明治元年となったものです。
生まれたのは平井家というところでしたが、
翌年、同じ内日の津嶋家の養子となり、
13歳の頃に、下関清末の内田家に迎えられます。
結局、明治25年(1892年)に、
平井家より弟を養子に迎えて津嶋家を継がせ、
自身は平井家に戻り、すぐに内田家の養子に入りました。
遡って明治20年(1887年)、
関西法律学校(現・関西大学)に1期生として入学。
卒業後、和仏法律学校(現・法政大学)も卒業し、
明治23年(1890年)に、高等文官試験に合格。
地方裁判所判事を経て、海軍省に入ります。
海軍省では司法局長や法務局長を歴任。
大正3年(1914年)のシーメンス事件では、裁判長を務めました。
大正14年(1925年)に退官した後は下関に帰郷。
昭和3年(1928年)から昭和21年(1946年)まで
貴族院議員を務めました。
また、交通事業やガス事業などにも携わっており、
下関の経済界にも大きな功績を残しています。
市民からは「ひげの閣下」として親しまれたそうです。
桜山神社奉賛会会長も務めています。
そして、昭和40年(1965年)、97歳で死亡しました。
碑は昭和43年(1968年)に建てられました。
題字は内閣総理大臣などを歴任した岸信介が手掛けています。
場所はこちらです。