毛利元氏公館址碑、伝毛利舘址 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

下関市豊北町滝部。

豊北高校(来年から3年かけて下関北高校に移行)の

道路向かいにある、「毛利元氏公館址碑」です。

 

ただ、これ自体は案内をするための碑のようで、

碑の向かい側から細い路地を進むと、

豊北高校のグラウンド横、

プールの手前にもう1基の碑があります。

 

 

「伝毛利舘址」と記されています。

この碑のある丘陵・土居ヶ原に、

毛利元氏の館があったと言われています。

 

 

以前ご紹介した毛利家の系図もご覧いただければと思いますが、

毛利元氏は、元就の次男・吉川元春の次男に当たります。

 

元服後、当初は「元棟」を名乗っており、

仁保家に入って家督を相続しておりました。

その後、父・元春、兄・元長が死去しましたが、

吉川家の家督は、病弱な元棟ではなく、

弟・経言(後の広家)が相続することになりました。

更に仁保氏は元氏の娘を妻に迎えた

神田元忠(後の三浦元忠)が継ぐことになり、

元棟は名を変え、「繁沢元氏」を名乗りました。

 

豊北町とのゆかりとしては、

1591年に、田耕(現・下関市豊北町田耕)にあった

滝山城(竜山城)を任されています。

そして、この滝部に居館を設けていたようです。

その後、関ヶ原の合戦頃に

玖珂(現在の山口県東部)に移りました。

 

後年、子・元景が毛利姓に復して

阿川(現・下関市豊北町阿川)に移ります。

こうして、元氏を祖とする、阿川毛利家が誕生しました。

 

 

一方、元就の九男に久留米城主・小早川秀包がいます。

関ヶ原の合戦で敗北後、毛利姓に復し、

長門国に移りましたが、翌年、病死しました。

子・元鎮は、この地にあった元氏の居館に入っています。

 

そして、元鎮の子・元包が吉敷(現在の山口市内)に移り、

吉敷毛利家となったのです。

 

 

「毛利元氏公館址碑」の場所はこちらです。

「伝毛利舘址」の碑の場所はこちらです。