太閤石由来記 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

以前UPした赤間神宮の写真です。

 

赤間神宮は元々、西暦859年に創建された

阿弥陀寺というお寺でした。

その境内に、壇之浦の戦いで命を落とした安徳天皇が埋葬され、

1191年、安徳天皇を祀るために御影堂が建立されました。

 

明治時代に寺から神社となり、「天皇社」と呼ばれましたが、

その後、明治8年(1875年)に「赤間宮」に、

更には昭和15年(1940年)に「赤間神宮」となりました。

 

 

写真に写る門は「水天門」と呼ばれ、龍宮城をイメージしています。

昭和33年(1958年)に建立されました。

 

そして、その水天門の下に、

注連縄が掛けられた石垣があります。

「太閤石」と呼ばれています。

 

 

 

付近にその由来記が建てられています。

 

 

太閤石は、豊臣秀吉の大坂城築城に当たり、

肥前の龍造寺隆信が

石垣のための石を海路で運搬しようとしたものの、

関門海峡の急流に悪戦苦闘しているうちに城が完成したために

関門海峡にその石を投棄して引き上げた、

または、関門海峡で船が沈没して石が海中に沈んだ、

その石だと言われています。

 

下関港の第二突堤前の海底に埋まっていましたが、

昭和42年(1967年)、工事の際に発見され、

赤間神宮に納められたものです。

 

 

秀吉は、1587年、九州征伐に向かう途中で

阿弥陀寺に和歌を奉納しています。

その和歌が、碑文の中に記されています。

 

「波の花 散にしあとを こととへは

 むかしなからに ぬるる袖かな」

 

 

碑の撰文は、当時赤間神宮の宮司であった水野久直、

書の揮毫は、書家の田中育馬江舟が手掛けています。

 

 

場所はこちらです。

 

 

〔追記(平成29年9月3日)〕

「明治時代に阿弥陀寺が神社になり、『天皇社』と呼ばれた」旨

説明いたしましたが、

明治3年(1870年)に阿弥陀寺が廃され、

御影堂が神社「天皇社」となったというのが正確なようです。

失礼いたしました(>_<)