仲哀天皇と新羅 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

以前からお話ししておりますとおり、下関市長府の忌宮神社は、

仲哀天皇が豊浦宮を設けた場所だと伝えられています。

 

その仲哀天皇についてちょっと気になったことがあったので、

今日はそのお話をさせていただきます。

 

 

昨日お話ししたとおり、西暦198年、

仲哀天皇は、豊浦宮に攻め込んだ

新羅の将軍・塵輪(塵倫)を討ち取ったと言われています。

 

一方、以前お話ししましたが、翌199年、

仲哀天皇が筑紫(現在の福岡市)にいた際、

天皇は、妻の神功皇后に、熊襲よりも先に新羅を先に討つよう、

神のお告げがあったにも関わらず、

「海を見てもそのような国は見えない」と

それに従いませんでした。

神の怒りを買った天皇は、翌200年に病没しました。

 

 

……何だか、攻め込まれた相手の国のことを知らないって、

妙な気がします。

199年時点では、少なくとも、海の向こうに別の国があることを

理解していたはずではないでしょうか。

 

しかも、神功皇后は新羅王子・アメノヒボコの子孫であり、

そのため、新羅のことを知っていたという説もあります。

仲哀天皇は、妻と出自の話をしていなかったのでしょうか。

 

 

学術的には決着がついている話なのかもしれませんが、

浅い知識の範囲では「あれ?」と思ったので、

お話しさせていただきました。